• 2024/03/16

    さみしさについて、吾輩はそれを忘れないが、ふたつは忘れる。吾輩は、昨日さみしかったことを今日もおぼえていて、だから今もさみしいと、にらんだり逃げ回ったり擦り寄ったりしながら甘えて、さみしさを解くことができる。不足を知っていて、なにがそれを埋められるのかも知っている。ときに満たされ、ときに満たされない、ひとつの生命にひとつきりの器を持っている。ねこの記憶はあまり長くないと聞くが、あまり実感はできない。いまの瞬間とは無関係な特定の記憶を取り出すことはできないだろうが、知っていることと知らないことは、ねこの内で確実に区別されている。ふたつはさみしさを忘れる。さみしかったから甘えるのではなく、いま求めているから身体をぶつけにくる。だからふたつは、そもそも、さみしさを解くことはできない。それは記憶が保たれないからではなく、一つひとつが新しいからだ。器を生成しては次へ、また次へ、いくつもの器が足跡になる。いつも新しい器をひとつだけ持って、二度とふりかえらない。

  • 2024/03/05

    閉まった窓と網戸のあいだに入りこんだ小さな虫を、ふたつが威嚇する。出て行こうとして飛び回る虫にふたつが顔を近づけるが、冷えた窓をあたたかい鼻が点々と曇らせるだけだった。あんな跡が、わたしの心にいくつも残っている。

  • 2024/02/27

    業者の出入りが済んだあと、天気もいいし換気がてらにと窓をあけたら吾輩が起きてきた。別の窓辺に近づいて、あれ、という顔をするので、こっちの窓だよ、と言うとまっすぐに向かっていく。寒いのがきらいなのに、窓をあければ冬場でもかならず窓辺に向かうのがいとおしい。爽やかに晴れているが気温はふつうに冬なのでそろそろ閉めたい、と思っていると、ぬかりなくふたつも起きてきた。冷たい空気の通う窓辺にふたりが並ぶと、寒さなどどうでもよくなってしまう。

  • 2024/02/26

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    旅先でなんとなく居心地のよい土地があっても、滞在することと住むことは(一生を思えば誤差にすぎないにせよ、きょう一日のわたしにとっては)否応なしに別に意味を持つ。平気でいられずにコロナ禍の真っ最中に引っ越した土地は、平穏そのもののようですばらしかったのに、終わりがないということがひどく重かった。途方もなく、はじめて、できないことが重荷になった。どうにもならないと思った。いまここで毎日のように同じ通りを歩いて、それだけで、そのたびにまだ新鮮に、なんとなく大丈夫だろうと思う。大丈夫でないことは大丈夫でないまま、どうにもならないことはどうにもならないまま。甘美も正直も、流れる時間の長短も、そんなもんだろうという逆説的な慰安も、この足で描けるほどの円につつまれている街が、けったいで魅惑的で、安心する。

  • 2024/02/24

    出かけるまでまだ時間があり、すこし眠たくてソファに寝転がったら、ふたつがいそいそと追いかけてきた。膝にかけた上着の中に入りこもうとするのだがスペースが足りず、むりやり入ってみたものの居心地がわるそうに出ていった。かと思いきやまた潜りこんできて、今度は横向きになったわたしのおなかの空白に丸まる。そのぬくもりにそそのかされて一時間ほど眠ったらしく、起きてもまだふたつはそこにいて、そのからだがソファから落ちてしまわないように覆っていたわたしの手のひらに四本の足がくっついていた。やわらかく、ちょっと乾いた肉球。抱きしめたかったけど、動けばふたつは起きてしまうから、じっと幸福に耐えていた。

    長いエスカレーターで、帰りがけらしい親子の声が聞こえる。いや、聞こえるのは親の声だけで、こどもの声はなかった。そんなことするんだったらもうどこにも行けないよ、その年齢ならもうこんなふうにできないといけないよ、云々。早口でまくしたてる。罪悪感の育成。それがこどもを立派で無害な、あるいは一人前の、あるいは人並みの人間に仕上げる条件ならばたまらない。夕方に向かう電車内で、見上げると網棚に空いたいくつもの丸い穴。通気、光の落ちる穴。

  • 2024/02/11

    夜の来宮駅はまるで山陽本線だった。寒さにふるえながら電車を待つあいだ、当時、数えきれないほど何度も顔をあわせた人たちのすがたが浮かび、自分ひとりで生きていたわけはないといまになって理解する。

  • 2024/02/08

    なんとか起き上がり、足もとで横たわりながらこっちを見ている吾輩とふたつの額をなでる。なでるなでるなでる。まだはんぶん寝ている頭で、ねこたちがいなかったら起きる意味も寝る意味もなくなってしまうかもと思いながらベッドを降りた。すぐにふたつも後を追って降りてくる。

    どれほど似通っていても共通事項を並べても、遠いよりは近いというだけのことにすぎない。どこかに自分と似た形の影を見つけて、似ているねと言ったとして、それがわたしの生命線になるというのが、どうもわからない。

  • 2024/02/07

    目覚ましが鳴り、わたしがうごうごしていると、ねこたちは鬱陶しくなってベッドを降りていく。そしてスヌーズが繰り返されたのち、もうさすがに起きなければまずいというころになって、平然と帰ってくる。ふたつはふとんの中に潜りこみ、吾輩はわたしの脚に乗っかり、完全に二度寝の体勢をとった。それらを泣く泣くかきわけながら起き上がるわたしを、ねこたちは目を丸くして見る。変だろうね。わたしもそう思っている。

  • 2024/02/06

    なにもかも前借りして生きているという感覚が年々強くなり、成すことではなくやり過ごすこと、踏み倒していくことが根本的な回路になっている。まなざしによって相手からわたしが遠のき、そのわたしからわたしが遠のく。事実がまなざしのもとで真実になることはない。言いたくもないので口には出さないが、想像力の欠如がなにを招くのかを考えもする。<見られている自分>と<自分>とをすっぱりと切り分けることはまなざしに無関心になることではないが、関心をもつことは弱みでもない。祖父が死んだときのことをときどき思い出す。時代も環境もまるで違うけれど、死に際までこのままでいられるのかもしれないと暢気に思ったときのこと。

  • 2024/02/02

    年齢を基準にして、こうはなりたくねえなあと思うことがあり、こうなりたかったもんだなあと思うことがあり、もちろんそういう思考はろくなものではない。能力の進行や状態を年齢軸で捉えるほどばかばかしいことはないが、とはいえ年齢軸と時間軸はどのように、どれほど異なるのだろうとも思う。人それぞれだと言うべきときも、人それぞれとかいう話ではないと言うべきときもある。

    吾輩は最近ふとんに入らない。昨夜、ふとんをめくって入るかどうかたずねてみると、吾輩はすこしのあいだ考える顔をした。その傍らでふたつは、まったく興味を示さずに窓の外を見ている。