はじめて引っ越しをした。正確には二度体験しているが、幼少期だったのでほとんど記憶がない。名実ともに灰色の建物、みんな挨拶もそこそこに目を伏せて自分の城へ滑りこむ、それがわたしの住むところだった。物理というよりは気風としてなかなか閉塞的で、でも悪くなかった。むやみな付き合いを好まない人間が住むにはちょうどいい場所だったし、そういうわたしの性格を支えてくれていたと思う。
しかし変化を拒むことはできない。趣味嗜好はもちろん、心身の変化は止められない。生かされているなどというつもりはないけれど、加齢が味覚や消化能力を変えていくのと同様に、おのずと変化していく肉体と精神のうしろをついていくようにして生きていくしかないということがある。それで、手狭で閉塞的な、しかし居心地のいい城を飛び出して、遠い土地の一軒家を借りることにした。よく考えるとよくわからない行動だが、生きていくというのは、ようするにそういうことだった。
新居を掃除しながら、家というものについてずっと考えていた。ねこは人ではなく家に住むものだという。しかし慣れない大きな家でおそるおそる動いてる自分も、そういうねこと特に変わらないんじゃないかと気がついた。
ねこは前の家で待ってくれていて、先にひととおり掃除を終えてから連れてくることになっていた。ねこの引っ越しの大変さはよくよく耳にしていたから、はじめは居間だけで放して、ここに慣れたら向こうの部屋へも行けるように、あそこの扉は閉めておいて……などなどといろいろ思案していたのだが、新居に掃除をしに来てはじめての夜、いくらかあたたかいはずの和室ではなく冷える板張りの居間で寝袋にくるまった自分にはっとしたのだった。
荷物を置き、ストーブを焚き、近くのスーパーマーケットで調達した帆立の炊き込み弁当を食べ、お茶を飲み、雑巾をかけ、掃除機をかけたこの居間が、この家においてわたしがまだいくらか安心できるわずかな領域だった。だからここで眠りたかった。ここじゃなければ怖くて、ここに籠城した。ここに慣れて、朝になったら、あっちの和室へもういちど足を踏み入れてみよう。それは隅っこから新しい住居をじっくりと観察し、やがて体勢を低くして、首を慎重に突き出し、鼻先で辺りを点検しはじめるねこと同じ仕草だった。
人間は悲しいまでに傲慢なもので、「ねこは家になつくらしいから、引っ越しのときは神経を使う」なんてことを平気で言ってしまう。大人だし、したくてしている引っ越しだとわかっているし、そう言い聞かせて泣きはしなかったけれども、つむったまぶたの奥で夜中じゅう横たわっていた苦痛が、わたしが少しでも誠実さをもってこの家にねこを迎えるための準備のひとつだったのだと思う。
前の家でわたしが安心できていたのは、あの家「だから」ではなく、わたしがあの家に何十年も住んだからにほかならない。ここでおしっこを一回、うんこを一回、毎日の食事に入浴、一夜ごとの睡眠、そうして少しずつこのトイレやお風呂や台所はわたしのものになっていく。