『わたしたち』(2016)ユン・ガウン
以前から観たいと思っていたところ、Gyao!で無料配信があった。
オープニング、画面は主人公ソンを中心に置いているのに、ここは「外側」なのだということがはっきりとわかる。引きつった笑み、焦り、肩を叩いた先生になんでもなく振る舞い、「いつも」のように絶望する。かさついた唇。生え際にはりつく細い髪が、拠りどころのなさを伝えてくる。
「ありふれた」いじめられっ子のソンと、転校生のジア。急速に親密になった彼女らの関係は、ジアが塾で仲良くなったいじめっ子・ボラの存在によって変化し、ジアはソンを切り捨てていく。そしてまもなく、ジアに成績首位を奪われたボラはジアを切り捨て、ソンの肩をもつ。
家庭環境、成績、子どもたちの世界を取り巻くもの。なすすべなく取り巻かれている彼女ら、しかしただ「わたしたち」でもある彼女ら、子どもたちの世界のあっけなさと確かさが誠実に描かれている。
親の離婚に傷ついたジアは「母親はロンドンで仕事をしている」と周囲に嘘をついていたのだが、その嘘は、なにか一波乱を呼ぶこともなくただ「嘘」として扱われる。ソンのために働いた万引きも、ハラハラするような展開には使われない。子どもたちの世界にはさまざまな悪、うしろめたさ、嘘があるけれど、それらがなにか大事に繋がることは、実はほとんどない。嘘や悪さを記号として取り扱わず、子どもの世界にただ「ある」ものとして描くのは、力の要ることだと思う。
友だちができたことを「すごい?」と言わせてしまう親、「黙っていたらわからない」とため息をつく先生。大人の暴力性が鮮やかに見せつけられるけれども、それも子どもの世界に「ある」ものでしかない。 大人の暴力性をクローズアップすることはできるし、警笛を鳴らすことだってできるはずだけれども、これは「わたしたち」の物語だから、突きつけるようなことはしない。いじめも、経済格差も、家庭環境も、さまざまな問題を描きつつもそれらを画面の中央に置くことはしない。彼女らを取り巻く問題はすべて、どんなに重大でも記号的でも、「わたしたち」の物語の中にあるものだ。
子どもが「大人」になる、なっていくというのは、点と点が線で繋がる瞬間を(たとえ望まなくとも)積み重ねていくことなのだなと思う。親と子の執着、アルコール依存、成績、いじめっ子、ばかな弟。すべて地続きなのだという体感とともに、理解不能だった「なんで」が、想像をともなった「なんで」へと変化していく。
映画の最後、ジアを、あるいは「わたしたち」を助けるためにクラスメイトたちに反論するソンの姿は凛々しい。対して、登場時よりずっと脆くなったジアの姿が印象的に描かれる。まとっていた弱さを丁重かつ大胆に取り除いたソンと、まとっていた強さを半ば強引にはぎ取られたジアの目線。そしてやっと対等な「わたしたち」がはじまるならば、なんて救いのある物語だろうと思う。