十代の感受性を尊んで、そこを通り過ぎなければいけないこと、そして通り過ぎてもう失われてしまったことを悲しんだことが、もちろんわたしにもあった。十八くらいのときだと思う。それも過去になる。感受性を謳歌していた自身としての過去が、やがてそれを失って悲しんでいる自意識に満ちた自身としての過去になる。もちろん現在も、やがては。
過去のある日とは別の言動をして、別のしかたで考えているから、いまは別のものが紡げるのだという、あたりまえのことが腑に落ちる瞬間が、ときどきくる。パルメザンチーズとローズマリーと黒胡椒をたくさん入れたクッキーの生地をのばして、行きつ戻りつする麺棒を眺めながら考えていた。やり直しというものがある。リセットではなく、過去を引き継いだまま、方向を変えるということ。つまり、やり直したいと思っても、過去に戻りたいわけではない。過去に戻ったところで同じ経験を踏まなければわたしは同じことをするだろうという自信がある。今度はうまくやれるという自信がわたしにはまったくない。人間の変化は月日とその間の経験によるものだから、その月日をばっさり切り落として戻ったら、似たりよったりのことを二度やる(そして悔やむ)にきまっている。現在位置からやり直すことは、単に「やる」のだともいえる。それってなにも直してなくない? なにも直してない。ただ、これまでとは別の方角へ行くだけ、それはやり直しなんかではない。でもやり直す。過去との誠実な付き合いかたはあるのだと思う。やがてクッキーが焼ける。
