当駅始発の電車に乗って、数分先を行く一本を見送る。「私にはクリスマス権がある」という車内広告。キャッチコピーの働きとしては正しいのだろうが、わたしはクリスマスという概念が好きだから(もはや宗教行事に留まらない)クリスマスの幸福さを狭められると腹が立つ。わたしにとってのクリスマスは、宗教行事としてではなく、イベントとしてでもなく、何が起こるとか起こらないとか、物理的なプレゼントをあげられるとかもらえるとかでもなく、一応そういうハートフルなイメージや行為を基盤にはしつつも、ただなんというか、光なのだ。心に光が宿ることは権利ではない。
「誰かとの/私たちのクリスマス」よりも広い意味を持たせるのはわたしの好きなクリスマスに近いのかもしれないが、「私という最小単位」のためのクリスマスというのは、やっぱりそういう光を消し去ってしまう、光の宿るところを埋め立ててしまうことなんだろう。わたしにとっては。しかしまあ、結局はルミネでクリスマスのためのショッピングができる権利へと流れていくわけで、露骨だなと思う。露骨でないよりはいいのかもしれない。電車のなかで温まってきた指先を見ている。