午前三時すぎにベッドへ潜りこんで、朝食の特等席のために早起きした。カーテンをあけっぱなしにして眠ったから、寝そべったまま目を開いただけで、一面の鈍い藍色とまだ灯っている光のつらなりが見える。以前コソボのペヤで泊まったアパートで、目覚めると正面の大きな窓に、澄んだ青空と雪をかぶった山の上部が毎朝広がっていたのを、ときどき思い出す。七時ちょうど、ル・ノルマンディの木の扉が開かれて、まだ重たい青に満たされているレストランを進んで、窓際中央のテーブル。今朝は雨で、もうすでに窓に水滴がはりついていた。数秒かけて流れ落ち、すぐに新しい雨がやってくる。死んでしまうとそれは生きていないということなので、死んでよかったのか、生きていたほうがよかったのか、たぶんもうわからなくなってしまう。生きているあいだは死ねないので、生きているほうがいいのか、死んだほうがいいのか、判断ができない。生きていると生きることしかできなくて、死んだら死んでいることしかできない。でも高麗青磁のような曇りの空と海面、標の灯のもとで、高級というには気安く街に馴染みすぎている、大衆的な、けれど庶民のための気休めではない優雅さがカトラリーの表面に光るのを見ていて、うれしかった。銀のティーポットから紅茶が注がれる。今朝が雨でよかった。生きているときに、死んでいるよりも生きているほうが幸せなんじゃないかと思う瞬間に出会うことは、助けになるだろう。チェックアウトのあと、二階ロビーから通りを眺めていたら、突然まぶしい光が路面を照らして、世界が急激に明るくなる。切りひらくような日差しの麓で虹がかかる。おしゃべりをしたり、スマホに首をかたむけたり、腕を組んだりしていたロビーの人びとが、わっと声をあげて窓へ寄ってゆき、日差しに顔をさらして虹を指さす。