2023/04/18

隣人が玄関先でだれかと話しているのを、聞くともなしに聞いていた。相手はなんらかの業者のようで、威勢のいい声がときどき言葉になって聞こえてくる。曰く、安くて七万円だの八万円だの、税込九万円だの。あとの声はだいたい不明瞭で、業者の人が「また連絡します」と言って話は終わった。ふたつを見ると、カーペットに寝そべりながらその目と耳を玄関へかたむけている。ふたつの耳なら会話がよく聞こえたんだろうねと言っても反応はなかった。言ってから、よく聞こえても会話の内容はわからないのだと気がつく。なにが税込九万円なのか、そもそも税込九万円という言葉はふたつの耳にはどんなふうに聞こえているのだろうと思う。わたしが異国の土地で飛び交う言語を聞いているとき、意味はまるでわからなくても、その響きをおおよそのカタカナに変換して起こすことはできるだろう。ふたつはどんなふうにあの会話を聞いたのだろう? ふたつが鳴くとき、その意味はわかるときもわからないときもあるけれども(わかるのは八割くらいか)、わたしが理解するのは税込九万円とかいうような具体的な言葉ではなく、その意思だ。おなかがすいたとか、寝ようとか退屈だとか寂しいとか、トイレに行っただとか、なにをしてるのかとか。ふたつにはわたしの言葉はどう聞こえるだろう? わたしは言葉を送っているつもりでいても、それはそぎ落とされて、音や響きが本質にとって変わるんだろう。いや、もともとそれが本質なのか? チャイムや水音は言葉をもたない。あるいはギターやピアノの音色も。でもそれらの音は意味や働きをもっている。わたしとねこたちはそういう音を共有できるだろう。もっとも、そうした音を怖がるか喜ぶかはまた別の話だとしても。いま外でいきなり爆発音がしたら、わたしもねこたちも驚いて、お互いにあぶない感じを抱くはずだと思う。「爆発かな」という言葉がつくる光景や文脈をねこたちは理解しないだろうが、「こわいね」という言葉の響きを受け取りはするだろう。そんなことを考えていたとき、ふいにわたしがくしゃみをすると、ふたつが短く何度か鳴いた。ふたつは人がくしゃみをすると何かを言う。それが嫌な感じをあらわしているのか、心配をあらわしているのか、わたしにはずっとわからない。