昨夜のブカレストのバスターミナルには、閉鎖しているのかと思うほど暗い待合室があった。おそるおそる覗くと窓ガラス越しに人が見えて、なんだガラスのせいで暗く見えるだけか、と中へ入るとまったく外から見たままの暗さだった。駐車場に向かって一面がガラス張りになっているが、目前に事務所のような建物(機能しているようには見えない)があるのでバスの動きは見えないし、窓際ではなぜか大量の観葉植物が待合室のスペースを圧迫していて、反対側の壁にそって一列に並べられた冷たいベンチに座る人びとは、いかにも一時的な客人という名のよそものなのだった。唯一空いていたベンチに座りこんだが、あとから来た二人組はベンチに空きがないのを見て、冷えこむ外へ戻っていった。あの観葉植物とベンチの位置を入れ替えれば席はもっと増やせるに違いないのだが、そもそも増やす必要性がないといわれれば、まあそれはそうかもしれない。人間が人間の移動の合間に待つために作った部屋にもかかわらず、居心地が悪いどころか、この空間においては植物よりも人間のほうが異質な存在に感じられる。
イスタンブールからブカレストへ行く深夜バスでは学生たちが尋常でなくやかましかったが、どうも平均的な、というかようするに他人どうしの乗客ばかりでほっとしていたら、今度は運転手がたいへんご機嫌だった。運転しているあいだも騒がしいわけではさすがにないが、運転が達者なぶんすさまじく荒い。がんがん飛ばしてハンドルを切る。パスポートコントロールでバスをとめたと思ったら、外は0度前後なのに半袖でドアを開け放して、手近な乗客に延々と話しかけている。寒すぎて眠れない。覚醒と睡眠のグラデーションを、ステレオから流れ続ける懐かしのポップミュージックが追い回してくる。到着予定は7時で、明るくなるまで時間が稼げていい感じだと思っていたのに、元気すぎる運転手のおかげで6時前にソフィアに着いた。マイナス1度。
日中は適当にソフィア市街をぶらついて、夜行列車でイスタンブールへ向かうつもりだった。切符のオンライン販売はなく窓口のみだったので、まだ夜の明けないバスターミナルから向かいの駅舎へと早足に道路を渡る。どちらかというと外よりも駅舎内のほうが空気が荒んでいるように感じたが、こうも冷えて、まわりに手ごろな施設がなければ、駅に人が集まるのは当然だろうと思う。わたしがこの場の秩序を乱しているにほかならない。窓口で職員にブチギレられながら切符を買い、バスターミナルに戻る。併設のカフェでラテを注文したら支払いは現金のみで、ATMを探して20Leiを引き出し、みるみる冷めていく味のしないラテとともに夜が明けるのを待った。
駅から大通りをひたすらまっすぐ行けば中心街に着く。そこらじゅうに遺跡などがオープンに展示されており、ルーマニアからすると中心街も都会的で、おおなんだか華のある街、と思ったが、しばらく歩いているとまた印象が変わってくる。豪奢な大聖堂、共産党政権時の巨大な建築、街のあちこちに並ぶさまざまな英雄たちの彫像。立派で歴史があって、でもなにかに触れたような気がしない。それはわたしが適切な手を準備できていないということで、ついでに相性の問題でもあり、ただそれだけのことだが、まあ、観光客というのはつねに外部から勝手な価値をつけて回るものなのだった。無礼でない観光というのはほとんど成立しないんだろう。
夕暮れまでぶらついて、バスターミナルに預けていた荷物をまた背負う。駅は朝よりはにぎやかで、列車を待つ人たちの姿もちらほらとあった。残しておいた硬貨でトイレに行く。一日じゅう電源にありつけず、寒さで消耗するスマホのバッテリーがぎりぎりだった。こちらももう底を尽きそうなモバイルバッテリーからすこしだけ充電し、翌朝着くイスタンブール郊外の駅から市街までの移動情報を切れぎれに収集する。SIMカードはヨーロッパ圏のものだから、トルコに入れば切れてしまう。ほんの十数年前までは出国前にあらかじめひととおりの情報を紙と頭に溜めこみ、インターネットなしでふつうに旅行ができていたのに、いまとなってはまるで信じられない。
発車の十五分ほど前になってようやく時刻表にホーム番号が出たので、薄暗い地下道に降りていく。ホームは十いくつかあるのに、時刻表は埋まらず、ホーム間を移動するための地下道には人がいない。市街の広い歩道も、それをありがたく感じるほどの往来はなかった。季節のせいか、あるいは時の流れをもっと遡ったり進んだりすれば、余白を感じることはないのかもしれないが。10番ホーム。ほかに停まっている列車はないのに、書かれてある出発時刻も行き先も違うので焦ったが、どうやら途中で切り離すようだった。時刻が違うわけはないと思うのだが、よくわからない。やはり人気のないホームをどんどん進むと、切符の印字と同じ車両番号にたどりつき、どこからともなく現れた職員のおじさんが切符をぱっと見て、乗れ乗れというようなことを言いながら笑った。
イスタンブール市街にはそこらじゅうにねこがいる、ということは一日目に実際に見て知っていたが、国境駅にもいるとは知らなかった。眠いし寒いし暗いしSIMは圏外になってしまったしなにもわからなかったが、トルコ側の駅なのかもしれない。列車を降りて正面、事務所のようなパスポートコンロールに入るまでに二匹、それからパスポートコンロールのカウンター、ガラスと柵を挟んでパスポートを受け渡すまさにその間で暖をとるのが一匹。ねこの上をパスポートが行き交う。外へ戻って車両検査を待つあいだに二、三匹。乗客の足にすりよったり、荷物をかいだり、追いかけあったり、置き餌を食べたりする。一日に何便がここに停車するのだろう。やがて小雨が降りはじめる。