写美にて『風景論以後』。言いっぱなしの印象で、かっこよく見えるものを並べ立てて結局なんの収拾もつけない、よくわからない構成だった。不勉強でなければなるほどねと頷けたのかもしれないが、感想などを覗いているとそうでもないらしいということがわかってきた。なるほどね。清野賀子の作品はとてもよかった。
三階では新進作家展。写真というのはわたしはどちらかといえば好きなほうで、でも根本的にというべきか、本質的にというべきか、作品としての写真は本当にいやらしいものだと思う。非日常的とされるものを被写体に選ぶときには、なにかを非日常と自分の視点でみなすばかばかしさと向き合わざるをえず、日常的とされるものを被写体に選ぶときには、ただの日常であるから日常であるはずのものを非日常化するばかばかしさにぶつかるはめになる。
自分の思想や目的が額縁であるかのように、現実あるいは他者を所有する。「普通じゃない」人たちを写して、それを部屋じゅうに飾って、なにが言えるのだろうと思う。「いろんな人間が生きていること」「すべて普通であること」に感じ入るために、風景に馴染まない人たち、目立つ人たち、追いやられた人たち、自分の理解の及ばない人たちを見ている。そういう人間が生きていることを知るのはいいだろう。生きているのだから。学術研究や、衝撃を受けた一個人が飛びこんでいくのも、相手が拒まなければそれでいいんだろう。でもこれは吐き気がする。その次にあったのは、写真はあるものを撮る……見るからあるのではなく、あるから見る、といったような話で、まったく気が合わないと思った。写真は、撮ることで現実を虚像に変えてしまうものなのだと思う。虚像は悪ではないけれど、それ自体のありかを捉えられるわけではない。写真は好きなほうのはずだが、写真展にはあまり足を運ぼうとしないことに気づく帰り道、ふいに奈良原一高の『王国』を思い出していた。