なにもかも前借りして生きているという感覚が年々強くなり、成すことではなくやり過ごすこと、踏み倒していくことが根本的な回路になっている。まなざしによって相手からわたしが遠のき、そのわたしからわたしが遠のく。事実がまなざしのもとで真実になることはない。言いたくもないので口には出さないが、想像力の欠如がなにを招くのかを考えもする。<見られている自分>と<自分>とをすっぱりと切り分けることはまなざしに無関心になることではないが、関心をもつことは弱みでもない。祖父が死んだときのことをときどき思い出す。時代も環境もまるで違うけれど、死に際までこのままでいられるのかもしれないと暢気に思ったときのこと。