一年前の夏、うちにやって来てくれた黒ねこのふたつは、野良だったからはっきりとはわからないけれど、だいたい一歳になった。
それよりも二年早くやってきた吾輩が、わたしにとってははじめて一緒に暮らすねこで、そのねこを人間が飼うということを、毎日の新しい反省と敬意とともに考えていた。
ふたつはその二年後にやってきたので、ねこ全般の生態、飼うことともに暮らすことについて、二年前よりはいくらか経験と知識があったのは確かなのだけれども、いや、「ねこ」のことが「わかる」なんてありえない話だなと思う。わたしは「ねこ」について「知る」ことしかできないし、少しずつにせよ「わかる」ができるのは彼女らについてだけなのだ。
いわゆる子猫の期間を比べてみても、吾輩とふたつはぜんぜん違う生きものだった。ねこにとってわたしは環境そのものだから、わたしの二年分の経験が、異なる環境を作り出していたというのもあると思うけど、やっぱり別の生きものに違いなかった。
種別単位でものを見ると、途端に多くのものを取りこぼしてしまう。
「全般」が必要な場面はあるし、わたしが自宅でねこと、ある点では気軽に暮らせるのも「全般」が紐解かれていてこそなのだけれど、ここで飼い(ねこはペットではないが確かにペットでもあり、わたしは彼女らを飼っているわけではないが確かに飼っている)、ここでともに暮らしてもらうねこが「ねこ」という動物でありながら一つの個体であることを、わたしはいつでも心に置いておかないといけない。心に置くまでもないことだけど、置かないよりはよほどいい。彼女らを見てさえいれば意識はいつでも適切なポジションに戻る。それはほとんど奇跡みたいにありがたいことだと思う。
吾輩と暮らすようになってから、いろんな性格のねこがいるとは知りつつ、おおよそ、ねことはこういうものか、と理解するようになっていた。人間にも「ねこっぽい性格」とか言うでしょう。なんか「気ままで女王様気質」みたいな、雑な……。でもそんなものは「全般」でしかないのだ。
吾輩は、高いところに登るのが上手くて、身軽で、すり寄ってきたのに手を伸ばすと逃げてちょっと離れたところでわざとらしくごろんとして、ごはんを食べるときはよくよく周囲の安全を確認して、普段と異なったものにはひとまず距離をとって警戒して、人間の言葉を理解しているような返事をくれて、まめにグルーミングをして、うんこをほぼまったく隠さずにトイレから出てきて、掛けふとんの中が好きで、それはだめだよと言っていることをやっているのが見つかると速攻で逃げて、早朝に起こしに来て、抱っこが好きで、抱っこしたまま椅子に座ると二の腕をふみふみしはじめて、姿が見えなくて探していると鳴いて居場所を教えてくれる。
およそ一歳になったふたつは、高いところに登ろうとすると五度に一度は落ちかけて、ソファに深く腰かけるとほんの数秒で太ももの上を陣取って眠りだして、立っているわたしの太ももに手をかけてスタンディング伸びをして、辺りにこぼれるのもお構いなしにごはんにがっついて、グラスの中の水を飲みたがり、お皿のふちを舐めて水を飲み、知らないものには警戒するより先に飛び込み、トイレの清潔さには鋭いのにトイレのあとのグルーミングはときどき忘れて、それはだめだよと言っていることをやっているのが見つかってもまったく動じず、朝は人が起きるまで一緒になって眠る。
それらを個性という言葉で都合よく均すべきではなく、わたしの役割は彼女らの自然をどんな言葉にも換えずに、損なわないことにほかならない。自分の目に備わったフィルターからは逃れられないけれども、フィルターを通ってきたものを外野に放り投げることくらいは、意思ひとつでなんとかできるはずだと思う。
手を差し出せばいつでも鼻を寄せて確かめてくれる彼女らに、わたしの最善を全部使いたい、と思う。疲れた夜も、身体の重い朝も、寒くても暑くても、彼女らがすり寄ってきたときには必ず撫でて、抱きあげてあげたい。