スローライフはうさんくさい。(やや)新しい言葉のすべてがそう、とまでは言わないけれども、「自分」や「自分たち」を損なわないために生み出された言葉が、やがて誰かの利益へと絡め取られていく、ということはよくあって、そうするとはじめは本質的でリアリティのあった言葉が、なんとなく虚しく、うさんくさくなっていく。
「スローライフ」はイタリア(の「スローフード」)が起源で、「ゆっくり生きよう」「ていねいな暮らし」なんて文脈ではなかったらしいのだが、今の日本では、定義はないもののおおむねそんなニュアンスで取り扱われていると見受けられる。
自然の豊かな土地で、畑に手仕事、手間暇をかけて、ゆっくりと、穏やかに、ていねいに暮らす。あるいは都会でも、限られたスペースであっても菜園を作り、コーヒーをインスタントではなく豆を挽いて淹れ、休日は時間をかけてパンを焼く。
新居の周辺のことを知りたくて、車だけじゃなくバスも使ってみようと思った。それで、バス停でバスを待っていたら、後ろからおばあさんに話しかけられた。「上がってってくださいよ」。上がるってどこに、と一瞬戸惑ったのだが、おばあさんはバス停のある歩道沿いに建つ家の方だったみたいで、この歩道は細いわりに自転車もよくスピードを出して通るし危ないから、うちの敷地に上がってバスをお待ちになりなさいよ、という意味だったらしい。
どうもとかなんとか言っているうちに、おばあさんはわたしを見て「やだ男の子かと思っちゃった、ごめんなさいねえ。そんなに髪が短いと男の子に見られません? 役で短くしていらっしゃるの?」と勝手に盛り上がりはじめ、「ここから山が綺麗に見えるでしょ」、ツツジの入ったちりとりを掲げて「これ、浜に捨ててこようと思ってねえ」、「今度から遠慮なく上がっていってくださいよ」などなどと喋ってくれる。
「スローライフ」のうさんくささは、生活をスピードで測ることにあるだろう。資本主義のにおいをぷんぷんに纏った反資本主義の看板を掲げて何になるのか? 意図的に掲げる側にはもちろん利益があるのだが、「スローライフ」がわたしたちに与えるものは結局のところ焦燥感にすぎなくて、もっと垢抜けた、もっと余裕のある、もっとクールな装い、その脅迫なのだと思う。
家の前でバスを待っている見知らぬ他人に「歩道は危ないから敷地へ上がって」と声をかけ、他愛のないテーマでひと盛り上がりし、ここから見える景色の美しさを共有し、自分の生活の一片を打ち明け、しかし淡白に、枝から落ちたツツジの花を浜まで捨てに行くために感慨なく背中を向けて歩いていく。それでもおばあさんはスローライフの模範になることはない。