はじめに家へ迎えたばかりのとき吾輩は、人の気配のあるところでは決してごはんを食べなかった。
すこし慣れてくると、人はいてもいいけれどもそれが少しでも動いたり音を立てたりすると食べるのをやめる、そういうねこだった。
数ヶ月か一年か、やがてわたしたち人間が動いたり喋ったりしているときでも気にせず食べるようになって、それでもふいに外からや家の中からでも慣れない音が聞こえたり、カーテンが風に揺れたりすると、しばらく中断して警戒してまた食べはじめるか、たとえわずかしか食べていなくてもそれで切り上げてしまう、そういうねこだった。
吾輩はわたしたちにとってもはじめて一緒に暮らすねこで、本当に申し訳ないことだけれど、彼女への対応が適切だったとはいえない部分がたくさんある。同時に、もともとの性格や、野良のころの悲惨な出自が関係していることもいくらか確かなはずで、わたしたちがもっとうまく段階を踏めていたらと後悔する一方で、わたしたちのやり方などで彼女の気質を左右できると考えるほどおこがましいこともないのだとは思う。
だから、そのどちらにも偏らずに気持ちを持続させるというのが、わたしにできることのひとつだと折りにふれて思う。
折りとは。
この家にきて半年以上が経ったが、最近の吾輩は、むしろわたしがそばにいるほうが安心して食べてくれるように感じるときがある。いつもではない。時々、そばで座りこんで、見ているよという姿勢を表すことで、吾輩の警戒心がいくらか和らぐように見える。
毎日に折りがあり、もちろん今朝にもあった。
吾輩もふたつも、ごはんを食べる定位置は一応あるものの、とくに吾輩に関しては、ちょっとでも気になることがあれば食べずに済ますことが多いので、食べてくれそうなタイミングならどこでもごはんを出している。
そして今朝は、台所で朝ごはんを用意していたわたしの足に頭をすり寄せて、見上げて、なんとなく寂しいよという顔をしていた(かどうかはわからないが、わたしはそう受け取った)ので、その場でごはんをあげてみた。
わたしは横に座りこんで、名前を呼んでみる。吾輩は食べはじめる。近所の家から掃除機の音が聞こえて、吾輩が顔を上げる。しばらく静止。名前を呼んでみる、食べはじめる。家のきしむ音、すずめの鳴く声、車のエンジン音、風が窓ガラスを震わせる音、静止しては、声をかけてみる。急かすのでなく、大丈夫というのでなく、あなたがいるここにわたしもいるよという気持ちで、わたしたちの座りこむスペースに自分を溶いてみる。
吾輩は未だに傷を持っているだろう、というのは人間の考えで、ねこの生体を基に考えれば彼女自身はもうとっくに忘れてしまっているのかもしれないと思う。でも持っている。傷は癒えないまま一体化して、彼女自身になる。癒そうというのはやはりけったいな話で、わたしはこれからも吾輩と長い時間を捏ねて、のばして、溶かして、安心を敷きつめていきたいのだと思う。