吾輩とふたつを見ていると、わたしがすること、できることは応答だけなのだなと思う。
応答するかしないかのどちらかだけがここにある選択肢であり、応答するかしないかだけがここにある。発せられるものはもうすでに発せられていて、快や不快、望みを発する声やまなざしはもうすでに目の前にある。風が吹けば風があり、鳥が鳴いたときには鳥は鳴いている。わたしが風神になれるわけではないし、鳥は通りすがるわたしのために鳴くのではない。わたしは風が吹いたので帽子をおさえ、鳥が鳴いたので木を見上げる。
ふたつはよく空気清浄機の上に乗って、宣言するように意気揚々と鳴く。「あそぼう!」。
吾輩はわりと平温でおしゃべりをすることが多いけれど、小食の彼女はたまにふと思い出したようにおなかが空くらしく、突然に顔をしかめて怒ったように鳴く。「ごはん!」。
あるいは言葉にされないもののいくつか。
たまたま夜遅くまで作業をしていて、いつもなら寝ている時間をとうに過ぎたときの、普段しない「やっかいな」ふたつの行動。思うように自分のペースが保てないでいるとき、なんとなく満たされないでいるときの吾輩の異食。乗りたいひざのスペースを見極めようとしているふたつの目。かなり部屋が温もったのでストーブを消すとわざわざ寒いところへ行って背中を丸め、こちらをちらちらと見る吾輩の圧。
応答は義務ではないから、しないこともできる。ゆえに応答なのであって、けれど応答すること、呼応することだけがこの家をやわらかく耕し、呼べば返るわたしたちを積みかさね、発することが信頼に足りてゆく。