昨夜、就寝前にストレッチをしていたらふたつがタタタとやってきて床に寝転び、お腹をみせてごろんごろんとするので、ぜんぜん身動きがとれなくて笑ってしまった。
吾輩はたいてい朝早くに起きてくるが、ふたつは誰よりも早いか誰よりも遅いかのどちらかであることがほとんどで、今日は後者だった。早く起きたときは、わたしの頭のまわりをぐるぐる回ったり皮膚を甘噛みしたりして起こそうとするが、10回に6回はふたつが折れて、そばで二度寝をする。遅く起きたときはというと、なぜか置いてけぼりをくらったような顔で、すでに起きている三人に順にごろごろとすり寄ってまわる。人じゃなかった。うちひとりは吾輩。吾輩はほとんど音を立てずに起きてくるので、台所にいるわたしが気づいていないとわかると、からだの毛のふわふわした先端だけで足に触れてくる。そして見上げる。
日没が早くなった。まだ暑いが、もう秋が覆いはじめている。昨日、古本屋と本屋と図書館、最後にスーパーに寄って帰ってきて、玄関の前で鍵を取り出すとき、この部屋が家に近づいたのを感じた。同じ家に小さいころから長く住んだから、住居は家なのだと思っていた。実際には、住居は家になっていくのであって、認識しだいなのだとすれば本当はどこにも家はないのかもしれないし、思い込んでしまえばどこでも家ということになる。
「持ち家」ならまた別の実感があるのだろう。子をもつ、所帯をもつ、家をもつ。それは家に「なる」のではなく、家に「する」ことなのかもしれない。けっきょく一年しか住まなかった大きな一軒家は、半年くらい経ったある日に吾輩とふたつがここを家だとみなしたように見えた。
晩ごはんのあと、机に戻ったらふたつがどこかからやってきて丸い目で見上げる。膝に乗りたいとき、ふたつはまず目を使う。だから、ふたつが膝にくることを見越して、膝の上でかけることなく丸めていたブランケットをきちんとかけ直そうとしたら、その途中の半端な状態でふたつはもう飛んできてしまった。早い早い、と笑う。でもほんとは遅かったのだ。