武蔵小杉駅のやや手前、こどもが泣き叫ぶ。別のこどもは向かいの線路を走り去る電車の種類の名前を呼び、左右に座る親たちに今日お風呂あがったらさ、と話す。こどもはこどもの声があまり気にならないのだなと思う、というか、少なくともその子には聞こえてすらいないかのように見える。こどもの泣き声はいつ聞こえてくるのだろう。
武蔵小杉駅のやや手前、こどもが泣き叫ぶ。別のこどもは向かいの線路を走り去る電車の種類の名前を呼び、左右に座る親たちに今日お風呂あがったらさ、と話す。こどもはこどもの声があまり気にならないのだなと思う、というか、少なくともその子には聞こえてすらいないかのように見える。こどもの泣き声はいつ聞こえてくるのだろう。
わたしのせいで生活リズムがずれてしまった吾輩が、19時ごろに起きてきてごはんを食べる。洗面所をうろついて、それから強気に鳴くので抱きあげる。顔を人さし指で撫でていると、片目をうっとりつむる。あるものが閉じられているときはかわいいけれど、もしこのきれいな緑が見えなくなることがあったら、目を閉じているかわいらしさがわからなくなるのだろうかと思う。あることには変わりないけれど、見られなくなったら寂しいだろう。
何度も台所へのぼるふたつの気をそらすために、手にしていた鉛筆を、止まっている扇風機のふちに滑らせた。かんかんと音がする。知らない音に振り向き、じっと見て、こっそり近づいてくる。また鉛筆を滑らせる。まんまるの目。滑らせるのをやめると、ふたつは扇風機ではなく鉛筆をじっと見る。それを何度も。ふたつにとって鳴っているのは扇風機でもその接地面でもなく鉛筆なのだった。そういうこともあるかもと思う。
ねこがごはんを食べはじめると、お皿の上でドライフードが転がる音、拾いあげたそれを噛みくだく音がする。ふたつの音は速く、吾輩のそれはゆっくり進む。ふたつは、食べているところを跨いでも気にせず食べ続けるが、吾輩は物音などで食べるのを切り上げてしまうことも多いので、わたしはその音が聞こえているあいだじっとしている。お茶を淹れにいくのを、ごみを捨てるのを、耳かきを取りにいくのを、ノートパソコンを閉じるのを、すべて後回しにする。耳をそばだてている。ねこたちの時間の流れをさえぎらずにいようとするとき、いちばんきれいな時間を感じる。
折り合いという生活のことを考えている。一日につけた折り合いの数。取り返しはつかないが、日々は小さなやり直しの連続で、途切れることはなく、けれどときどき裂け目がある。
ふたつは吾輩とちがって爪切りが嫌い、というか自分の意思でなければどんな体勢であれ嫌いで、爪切りなんてもってのほかという感じである。病院で切ってもらおうかと考えたこともあったが、病気ではない=心身が弱っていないねこを病院へ連れていく準備ほど大変なことはないので、それに比べればお互いましでしょうと一方的に話をつけて、たまに少しずつ切らせてもらっている。今日は右手の二本だけ。終わるとソファの下へ逃げこんだが、まもなくして水を飲み、しっぽをピンとたてて足もとに頭をすりつけてくる。過ぎたこと、過ぎること。過ぎゆくままに。
ポッキーも溶ける札幌から、成田空港に着いてバスに乗る。青い日暮れに気分がくつろいできたときに、どかどか乗客が増え、わたしの心のスペースなどもうどこにもなかった。冷房をいじる通路隣の人間にも、前席の合間でいやに光るスマホゲームの画面も、白いサンダルに映える焼けた肌のつま先も、やまないおしゃべりも全部が嫌で、せめて照明を落としてほしかった。イヤホンを押しこんで目をつぶる。そういえば十代のはじめはだいたいこんな気持ちだった。過ぎることは消え去ることではないらしい。
手土産を見繕いに、聚楽と悟空へ。海南飯店でお昼、と思ったら表はリニューアルして食べ歩き用のいちご飴やかき氷を売っていて、一瞬気づかずに素通りしてしまった。小さな厨房を作ったぶん、中はいくらか席数が減った。前にこの店に来たのはたしか春先で、やや暑く、よその露店で買ったいちご飴をここの軒先の影で食べるひとたちがひっきりなしに入れ替わっていたのを覚えている。食後、あまりにも暑いので帰りはバスにしようと、バス停に向かってふだん使わない道を通るとアンティークショップに遭遇した。フッチェンロイターの清楚なカップを買う。
帰宅して涼んでいると、ふたつが膝に乗る。なでるなでるなでる。うっとりと目を細める。わたしの指があなたをほどくことの不思議。
GINZA SIXには本当にほしいすてきなものがあるようでなく、ないかと思いきやある。ただの抑制は大した徳ではないとして、ようするに、欲望にまじめになることなのだと思う。
ろくに時間もないのに人参のミルクスープを作って、食べて出かけた。安売りだったディルをたっぷり。新設のbunkamuraル・シネマ 渋谷宮下で『大いなる自由』を観る。bunkamuraはいまだにどうも苦手なのだが、読んだ本や読んでる本や買った本や欲しい本などがロビーに並んでいる。まあ、だから苦手なのだとも思う。文化と東京(あるいはあらゆる国の首都)という街の異様をここ数日考えていた。それにしても渋谷は来るたびに妙な街になっている気がする。『刑法175条』までの空き時間に食事と買いものをして、横浜へ戻ってから入ったカフェで『大いなる自由』のプログラムをじっと読む。
追いかけっこで窮地に立ったふたつが、あわててテーブルへ飛び降りた拍子にマグカップがずれ落ちて割れた。文字に起こしたように響くパリンという音を、もう長らく聞いていなかった。割れたかもと考えるより早く割れたことを知る。あなたのカップは割れてしまったよと誰かの言葉で知れば、悲しみや怒りを通過するまでにいくらかの時間を要するはずなのに、音は感情をプロセスごと割るように素早く、カップの落ちた先に目をやるころにはもう、ああ割れた、という透明な事実だけが胸にあった。ねこたちは追いかけっこをぴたりとやめて、片づけをする姿をちょっと遠まきに、ちょっとどきどきした目で見ていた。大丈夫だよと声をかける。びっくりしたね。けががなくてよかった。本当にそう思った。わたしの内側にあると知らなかったものの存在は、ねこたちを伝うことでわたしにも見えるようになる。いつも。