吾輩が床にごろーんとするので、わたしも寝ころがった。いとおしいので写真を撮らせてもらう。かわいいという言葉の罪をいまも考えている。代替可能な言葉がほんとうにあるのか、ないのか、ないということはない。「おなじ」が切り捨ててふりかえらないものに未練がある。代替とか持続とかをずっと疑っている。
吾輩が床にごろーんとするので、わたしも寝ころがった。いとおしいので写真を撮らせてもらう。かわいいという言葉の罪をいまも考えている。代替可能な言葉がほんとうにあるのか、ないのか、ないということはない。「おなじ」が切り捨ててふりかえらないものに未練がある。代替とか持続とかをずっと疑っている。
ずいぶん寝た。ちょっと掃除をして、汗だくになり、顔を洗い、夕方にパスタを作る。飲食店で提供されるパスタのいただけなさの確率を考えながら食べる。だし巻きのような単純な料理ほど熟練された腕前でなければ……みたいなことだろうか。誰しもパスタに頼りすぎ問題か。標準がわからない、なにごとも。
ふたつが気に入ってくれているバリバリボード(つめとぎ)を新調した。はじめて買ってみた前回は数時間くらい様子見をしていたが、今回は床にひろげた組み立て前のパーツで早くも爪をとぎはじめる。おおよかった、と安心したがいざ組み立てると古いほうを使う。まあなんとなくわかる。一生を定義する言葉はひとつでは足りないけれども、よくてもわるくても、慣れていくことはそのひとつではあるんだろう。それは際限なく増えるだろうか?
映画を何本か観ていたら、寂しさなのかつまらなさなのか、ものの数時間で吾輩がストレスを負ってしまい、それから一、二時間くらい抱っこしていた。そういうときの吾輩は喉をごろごろ鳴らしながら、わたしの胸に顔をうずめて、手足ぜんぶでわたしの腕をふみふみして、やりきると二の腕のあたりに噛みつく。長袖だし、手加減されているのでそれほど痛くはない。息を漏らしながら噛みつき続けている吾輩の頭をずっと撫でていたら、そのうち口を離して、また胸に顔をうずめた。
午後八時前、散歩に出ると、人だかりに遭遇した。休日で人出は多いが溜まりどころでもないし、なんか三脚を構えて待機している人もいるし、花火かなんかかな、と思ったら当たりで、八時から五分間、海沿いに上がる花火を眺めていた。花火っていいもんだねという素朴な感想が出るのは、予期していなかったからだ。予定を立てて友だちと会うのは楽しいが、ばったり会ったときのそれとは異なっている。むかし淀川大橋の渋滞で完全に流れが止まっていたとき、淀川上空にとつぜん上がった花火のことを、いまもときどき思い出す。予期をあえて避けるとそれはそれで不自然な期待がともなうが、予期しすぎないというのは生の支えなんだろう。意が介在しないと成り立たない生活のなかで、ときどき不意が射しこむ。
人も多いし散歩はまあいいかなと、動きはじめた人の流れに乗って帰る。まるで花火を目的に来た人になっていた。したことは同じで、動機だけが違う。
午後九時すぎに寝たが、暑くて二十四時前に起きた。暗いリビングでは、カーペットの真ん中でひときわ黒いふたつが座りこんでいた。風が吹いている。暑かったのか、そうでもないだろう。じゃまをしたねえと声をかけたが、窓からの風が吹きこむソファに寝転んだらすぐに胸のうえへやってきた。カーテンがちょっと開いていて、向かいのマンションの廊下から蛍光灯のあかりがふたつの顔に差しこむ。小さな顔を両手で撫でたらうっとりと目を細めるすがたが、青白い灯りのもとに晒されている。ふたたび眠り、肌寒さに目をさますと六時半で、ふたつはもういなくなっていた。水を飲んでベッドに戻ると、吾輩とふたつがくっついて眠っているので、またおじゃまをして、ベッドの足もとがふたりの体温で暖まっているのをいいことに、ぬくぬくと三度寝をする。
午前四時五十五分、昨夜のうちに借りて停めていたレンタカーのエンジンをかける。ほの明るい駅前、起きたての電車が走る高架をくぐる。首都高、羽田線。湾岸線を通って東北道へ。もう九時くらいの気分で、実際にはまだ五時台だった。蓮田SAでおかかのおにぎりと、マスタードチキンのサンドイッチ、エクセルシオールのカフェラテ。絵に描いたような夏の畦道。八時半すぎに着いて、目的地の旅館山快を通りすぎ、営業前にドライブする。殺生石、恋人たちのなんとか、つつじの吊り橋。この先の人生で一度だって必要になることはない写真を撮る。
帰りの夕方、首都高からいくつもの扉と窓を眺める。入口あるいは出口。狭い一室の群れ。自分にとって都合がいいとき、いちばん近くに人を感じている。
隣人が玄関先でだれかと話しているのを、聞くともなしに聞いていた。相手はなんらかの業者のようで、威勢のいい声がときどき言葉になって聞こえてくる。曰く、安くて七万円だの八万円だの、税込九万円だの。あとの声はだいたい不明瞭で、業者の人が「また連絡します」と言って話は終わった。ふたつを見ると、カーペットに寝そべりながらその目と耳を玄関へかたむけている。ふたつの耳なら会話がよく聞こえたんだろうねと言っても反応はなかった。言ってから、よく聞こえても会話の内容はわからないのだと気がつく。なにが税込九万円なのか、そもそも税込九万円という言葉はふたつの耳にはどんなふうに聞こえているのだろうと思う。わたしが異国の土地で飛び交う言語を聞いているとき、意味はまるでわからなくても、その響きをおおよそのカタカナに変換して起こすことはできるだろう。ふたつはどんなふうにあの会話を聞いたのだろう? ふたつが鳴くとき、その意味はわかるときもわからないときもあるけれども(わかるのは八割くらいか)、わたしが理解するのは税込九万円とかいうような具体的な言葉ではなく、その意思だ。おなかがすいたとか、寝ようとか退屈だとか寂しいとか、トイレに行っただとか、なにをしてるのかとか。ふたつにはわたしの言葉はどう聞こえるだろう? わたしは言葉を送っているつもりでいても、それはそぎ落とされて、音や響きが本質にとって変わるんだろう。いや、もともとそれが本質なのか? チャイムや水音は言葉をもたない。あるいはギターやピアノの音色も。でもそれらの音は意味や働きをもっている。わたしとねこたちはそういう音を共有できるだろう。もっとも、そうした音を怖がるか喜ぶかはまた別の話だとしても。いま外でいきなり爆発音がしたら、わたしもねこたちも驚いて、お互いにあぶない感じを抱くはずだと思う。「爆発かな」という言葉がつくる光景や文脈をねこたちは理解しないだろうが、「こわいね」という言葉の響きを受け取りはするだろう。そんなことを考えていたとき、ふいにわたしがくしゃみをすると、ふたつが短く何度か鳴いた。ふたつは人がくしゃみをすると何かを言う。それが嫌な感じをあらわしているのか、心配をあらわしているのか、わたしにはずっとわからない。
8時50分羽田発、定刻をすこし巻いてシンガポール・チャンギ空港に着く。小さいころ、飛行の終わりを待つ七、八時間には、夜が三つくらいあったような気がしていた。搭乗橋に踏み出すと、呼吸を覆う湿気がせり上がってくる。国際線のターミナルにはノースリーブからダウンジャケットまで、いくつもの季節がある。夜中まで九時間半のトランジット、ひとつの夜。シンガポールは曇り、二十七度。大阪でもシンガポールでもパリでも、空港の周囲に伸びる広い道路はおなじ暗さで信号を放っている。
およそ二時間のディレイ、三時すぎに離陸。暗い機内で、どこかの子どもはどこかの言語でぐずった。子はただぐずりたいのではなくて伝えたいのだった。重みのないフィルムの弛み、飴玉の輝きのような光を飛び超えて闇へ行く。なぜ? これはミニシアターだなと思う。新開地、いまはなきKAVCシネマ。あるいは飛行のようなシアター。別の家があり、別の昨日があり、別の言葉があり、有限な場所でおなじ光を見る。おなじ座席が震えるのを感じ、おなじ闇へ行く。横顔と後ろ姿だけを知り、想像を隠しもち、明るみへ出るとともに忘れ去る。離陸までのカオスがしんと静まり、機体が安定するとふたたび渦巻きはじめる。しゃべり続ける金髪の女の子を見たら、後列で目をつむっている金髪の女の子を見る。
台所に立つとふたつがついてくる。本棚へ行くとふたつがついていくる。ヒーター前ことねこたちの定位置のそばに座ってみると、ふたつはうしろをついてきて、定位置のブランケットに横たわった。
しばらくして、もう大丈夫だろうかと椅子に戻ってみると、のっそり起き上がったふたつがついてきてじっと見上げる。わたしはヒーターのそばへ戻る。ふたつもついてきてブランケットに横たわるので、ここで本を読むことにした。
ふたつの後頭部を見下ろしていると、彼女が顎を上げて、頭をわたしの太ももにくっつけ、大きな目で見上げる。小鳥のような声を出す。見つめていると、ヒーターに向かってぽやんと伸びていた前足がくいくいと握られては開かれる。ねこたちの抑制されない動きを見ると、いつも、思いがけずピントが整うのを感じる。要らないものは要らなくて、要るものが要るのだ。
膝に乗ったふたつが、わたしの読んでいる本の角に頬をこすりつけて歯をのぞかせる。なんどもなんどもやる。わたしの持っているもののすべてきみのものだよ。ふたつを見ていると、平和主義は平和のないところにだけあるのだなと思う。