• 2022/12/06

    当駅始発の電車に乗って、数分先を行く一本を見送る。「私にはクリスマス権がある」という車内広告。キャッチコピーの働きとしては正しいのだろうが、わたしはクリスマスという概念が好きだから(もはや宗教行事に留まらない)クリスマスの幸福さを狭められると腹が立つ。わたしにとってのクリスマスは、宗教行事としてではなく、イベントとしてでもなく、何が起こるとか起こらないとか、物理的なプレゼントをあげられるとかもらえるとかでもなく、一応そういうハートフルなイメージや行為を基盤にはしつつも、ただなんというか、光なのだ。心に光が宿ることは権利ではない。
    「誰かとの/私たちのクリスマス」よりも広い意味を持たせるのはわたしの好きなクリスマスに近いのかもしれないが、「私という最小単位」のためのクリスマスというのは、やっぱりそういう光を消し去ってしまう、光の宿るところを埋め立ててしまうことなんだろう。わたしにとっては。しかしまあ、結局はルミネでクリスマスのためのショッピングができる権利へと流れていくわけで、露骨だなと思う。露骨でないよりはいいのかもしれない。電車のなかで温まってきた指先を見ている。

  • 2022/12/05

    出かけるとき、テーブルに飛び乗ってぎりぎりの角からじっとこっちを見つめるふたつに顔を寄せると、きらきらした眼と上向きの鼻が近づいてきて、視覚のすべてがほんとうにかわいかった。かわいいの用例にしたい。玄関を開けると冷たい空気とほのかな水気を感じる。知らないうちに雨が降っていた。今日の雨はとても冷たい。定価で購入したアウターよりも安く手に入れた中古のジャケットのほうが、おいそれと羽織れないということがある。慎重に袖を通していたシャツが数年越しに、気楽な相手になっていると気づくこともある。目の奥がずっと乾いていた。駅に着いて、傘をとじる。

  • 2022/12/04

    お昼を仕込んでから、予約資料を受け取りに図書館へ。路地に燻製のにおい、それからパンの焼けるにおい。白パンっぽく感じられるが、じゃあこれってほんとは何のにおいを嗅いでいるんだろう。坂を登ると、ピザの焼けるにおい。これはパンとは違って、土っぽい粉の香りだなと思う。ふいに五香粉のにおいがしたが、これはたぶん自分の指先から。帰り道には漂白剤のにおいがした。何歳にもなって、というのはやはり妙で、年齢というのは生き延びた時間と時代の証拠以上のものにはなりようがないのではないかと思いながら、スーパーに寄っていくつかの野菜と柿を買う。競馬に勝ったひとも負けたひとも公園で煙草を吸っている。

  • 2022/11/29

    前に住んでいた町まで行く電車が向かいのホームで人をかき入れるのを見た。雨の日は街がわずかに鈍くなり、塵のように軽くは運ばれなくなった人びとが駅の階段で連なる。朝から激しく追いかけあっていた吾輩とふたつは、気圧が急激に下がった午後から、ずっとベッドで寝入っていた。わたしは仕事に取りかかったが、やはりひどい眠気に襲われて、ソファで眠る。二十分ごとにアラームをかけては消して、途中から吾輩が暖房の前にやってきたのを見たのをおぼえている。観念して一時間後に設定したアラームに気がついたのかつかなかったのか、起きたらすっかり二時間後だった。街が曇天を背負って雨が降りはじめる。予定に遅れそうであわてて部屋を出ていくわたしを、暖かさに身体を緩慢にのばした吾輩が顎だけで見送る。濡れた路面を急ぐ。細くて暖かい雨で、足もとが濡れても感じない。けれど確かにジーンズの裾を湿らせているのだろう。ホームから高架の上を走りだす電車、その向こうに高いビルのいくつもの灯りの点々。わたしの街であってほしいと思う。ぎりぎり間に合った電車内の電子広告で、百年以上前の新宿が映っていた。失われたものへの幼稚な羨望とその特権を抱いて、街は一方通行に走ってゆく。広告はニュースへと変わり、企業は新型原子炉の開発に勤しんでいるという。窓も路面も風もライトも看板も車も人もかばんも水滴にまみれている。イヤホンからクール・アンド・ザ・ギャング。

  • 2022/11/28

    家族が食材を冷蔵庫にしまっているとき、わたしの脚に身体をぺたっとくっつけてきた吾輩を抱っこして、手近な椅子に座る。野菜室がひらく。いつもとは違う視点からそれを眺める吾輩が、目を丸くしている。わたしはきのう見返したばかりの写真たちのなかにいた、生後三、四ヶ月ごろの吾輩の顔を思い出していた。野菜室が閉じられ、冷蔵部のメイン扉がひらいてこちらへ迫ってくる。吾輩の目はますます丸く、黒目が大きくなる。幼いころの吾輩にそっくりだった。こんな景色と距離感は彼女にとってはじめてなのだと気がついて、都市に建つ古いビルの狭い一室にも、つねに新しさが生じることを知る。

  • 2022/10/23

    六時前に起きると、ふたつはもうリビングのカーペットで待ち構えていて、そこへ立ち入ったわたしの足をかすめるようにお腹をみせてころんだ。7時半に家を出なければならない日で、もう予習はいいやと切り捨てて、ふたつのおなかを撫でた。家を出るとき、玄関近くで見つめるふたつと目が合うのがつらい。謝るけれど、謝るのはわたしの心をなぐさめるためで、とても彼女らのためとは言えない。
    午前中の予定が終わると、過去も未来も霧散するような秋晴れで、駅とは逆の方向へすこし歩いて洋梨のショートケーキと焼き菓子を買った。歩いているうちに、秋晴れがだんだん夏をたぐり寄せはじめ、すっかり暑くなってしまったまま大船行きの電車に乗りこむ。車内全体が日曜日だ。晴れた川を渡り、こどもたちが叫ぶ。トーハク帰りの二人が図録を広げて楽しみをくりかえし、左薬指に明るい指輪をつけた二人が窓越しの陽ざしにもたれて居眠りする。
    一直線に家へ帰ると、吾輩とふたつはベッドからちょっと顔をあげて、偶然性に遭遇した目できょとんとたたずんでいた。もう帰ってきたよ、お留守番ありがとう、というと、納得したのかしていないのかよくわからない顔で、ふたりはまた眠った。出かけにはひとの後ろ髪をひくような姿をみせるのに(ひかれているのはわたしで、彼女らがひいているわけではないのだが)、帰ってくるとこんなもので、わたしにはそれが幸福だった。そうか、帰ってきたのか。じゃ、もっぺん寝るか。わたしの存在などその程度のことで、その程度が、生活の基盤なのだ。

  • 2022/10/22

    ふたつはわたしたちが出かけるのをひどく嫌がるようになった。普段から誰かのそばにいるのが好きなわりに、人が出かけるときにはそれはそれでと平然としていたが、最近になって、変わった。わたしが眉を描いたり服を選んだりして、外へ出かけようとしていることに気がつくと、信じられないという目で見て、混乱したように鳴いて、複雑かつ突発的な動きで部屋を駆ける。吾輩がいまのふたつくらいの年齢だったころ、彼女もわたしたちが出かける準備をしはじめるとすごい勢いで走り回ったり、ワードローブの奥へ引きこもったりしたのだった。その吾輩がやがて、ベッドに横たわりながら、しらけた、しかし睨みつけるような目つきで支度を眺めるようになったのは、年齢か、あるいは経験が彼女をあきらめさせたのか、そのどちらでもあるように思う。ふたつはどうだろう。

  • 2022/10/20

    起きぬけに足もとへちいさな頭をこすり寄せてきた吾輩を抱きあげて、日当たりの悪い部屋に入りこんだ朝日にさらしてみる。開館前の図書館へ本を返しにいく。空気が冷えてきて、吸いこんだ身体が凛とする。小学生たちがはしゃぎながら、あるいは親に手を引かれながら、学校へ入っていく。ポメラニアンと散歩するおじさんはかなりがに股で、朝日がかがやかしい季節になった。

  • 2022/10/15

    休憩中、今度の旅行でどの眼鏡をかけていくかうっすら考えながらうとうとしていると、ふたつの眼鏡がゆるんできたので調整してもらおうと近くの眼鏡店までふたりで歩いていく夢をみた。商業施設を通る道中、ふたつは本棚を歩いていて、その段はちょうどいい高さだねとわたしは声をかけている。

  • 2022/09/23

    朝の地震で、ふたつはベッドを飛び降りていき、吾輩もそれに続こうとして、止まって、逡巡する。わたしが降りるあいだもわずかに揺れていた。リビングへ行くと家族はシャワーを浴びていて、気がついていないらしかった。しばし一人。震源は茨城だった。
    行き交う人びとが広場から屋根のある駅舎へ入り傘を閉じるしぐさをじっと見ていれば、みんなどことなくおかしい。なにがおかしいわけでもないが、よく見れば、人はみんなおかしくできている。ほとんど同じ青いチェックのシャツを着てたまたま連れ同士のような距離にいる他人のおじさん二人、折り畳みの傘を閉じたらものすごい勢いでしぶきが飛んだ女の子、みどりの窓口から出てきた連れの男性にかなり間を溜めてから「そういうこと」と指をさす女性、犬をのせたベビーカーに慎重に覆いをかけて傘をささずに広場へ戻っていく男性とその隣で傘をさしてついていく男性、荷物だけをのせたベビーカーを押している男性、と思いきやそのうしろで女性に抱っこされている小さなこども。
    絶えず降りつづけていた雨が、夜中近くになると大降りになった。若者たちがなにか張り上げる声。「ばいばーい」だけが雨粒の跳ね返る音をくぐり抜けて響く。窓のふちに打ちつけられる雨の音が、肌まで叩いているような気がする。