• 2022/09/06

    4:30ごろ起床。グラスに水とお湯を混ぜて二杯飲み、そっと部屋を出て温泉へ行く。正面の大きな窓を開け、網戸越しに大木の葉がざわめくのを眺めながら浸かる。雑音が必要だ。部屋にいるときも思ったが、虫の鳴き声のつらなりと川の音というのはあまり聞き分けがつかない。草木のシルエットが揺れていても、それは虫のようにも蝙蝠のようにも砂嵐のようにも見える。
    田舎のみやげもの屋には、どのお店にもほとんど同じものが売られているように見える。都会の百貨店に売られているものは、どれも同じに見えるだろうか。たぶんそうだろう。

  • 2022/09/05

    5:30すぎ起床、ちゃちゃっと支度をして福島の温泉旅館へ出かける。吾輩は準備の途中で起きて、事態に気がつき、顔の領域のぜんぶで嫌だと言っていた。吾輩は人が出かけるのを嫌う。家にいるからといって特にべたべたしてくることもないが、ここにいるのが当たり前なのだから、ここにいてくれないと困るのだと思う。一本電車を逃したが、予定どおりの電車への乗り換えに間に合った。立ちっぱなしではあったが、誰かと身体がくっつくほどではなかった。神奈川東京間の電車で通勤しているらしい人が、そのどちらでもない場所にしか店舗のない書店のカバーをつけた本を読んでいる。新宿に着くころにはずいぶん空いてきて、9時のバスにして正解だったと思う。

  • 2022/08/29

    サンダルから上がった踵に落ち葉がすべりこみ、次の歩みで出ていく。丸善からエスカレーターを下る。見上げると天井にまっすぐに二本線が彫られている。直感的に、ぐねぐねと曲がっているほうがいいのではないかと思った。『文藝』を立ち読みしているときに考えていたのは、日本の小説における日本人の名前のことだった。わたしが比較的最近のものでも馴染みよく読めたのは、暫定的な名前だけが与えられた小説だったことを思い出す。本名という概念はむずかしい。橋を歩いていると、ひとけた年齢くらいの女の子が、白と黒で統一した出立ちで、黒電話をモチーフにしたバッグをかけていた。信号待ちをする男性が1ℓのペットボトルみたいに左脇に抱えている小さな犬が生きているのか作りものなのか本当にわからなくて、交差点を渡るあいだじっと見ていたが、いよいよわからないまま、犬と男性はマンションへ入っていく。以前行った松のやの店内の中央に大きく草花が飾られてあって、格安チェーン店でなぜ席数を減らしてまでそんなスペースが取られているのかわからないし、妙にリアルだし、590円のとんかつ定食越しにそっと触れてたしかめてみたことを思い出していた。もちろんよくできた造花だった。
    夏向きに焙煎されたドミニカを淹れ、昨日買ったネクタリンのクラフティを、焼きものなら一日くらい大丈夫だろうと昼すぎに食べた。晩夏の味。気温が下がり、急激に夏が美化されていくのを感じる。しばらくして、杏とくるみのフィナンシェを食べる。ふたつがじっと見ていた。

  • 2022/08/21

    朝5時30分、まだ起き上がらずにいるうちにふたつが吐いたので起きる。はじめて見たのでわからなかったが、どうやら毛玉だったらしい。コーヒーと、ヨーグルトに無花果とカカオニブを入れる。予習をかねて『グレイト・ウェイブ』を読む。
    きのうは鳴き通しだった吾輩が、今日は穏やかだった。冷や水をかけたように涼しくなった午前中、開けた窓のそばでまどろんでいた。たまに降りてきて鳴くので抱きあげると、しばらくそのままで目を閉じている。やがてまた窓のそばへ戻っていく。これを三度くらい。さつまいもを焼く。なぜあのスーパーには年中さつまいもが大量に売られているのかよくわからないが、好都合ではある。

  • あなたの早さ、わたしの遅さ

    昨夜、就寝前にストレッチをしていたらふたつがタタタとやってきて床に寝転び、お腹をみせてごろんごろんとするので、ぜんぜん身動きがとれなくて笑ってしまった。
    吾輩はたいてい朝早くに起きてくるが、ふたつは誰よりも早いか誰よりも遅いかのどちらかであることがほとんどで、今日は後者だった。早く起きたときは、わたしの頭のまわりをぐるぐる回ったり皮膚を甘噛みしたりして起こそうとするが、10回に6回はふたつが折れて、そばで二度寝をする。遅く起きたときはというと、なぜか置いてけぼりをくらったような顔で、すでに起きている三人に順にごろごろとすり寄ってまわる。人じゃなかった。うちひとりは吾輩。吾輩はほとんど音を立てずに起きてくるので、台所にいるわたしが気づいていないとわかると、からだの毛のふわふわした先端だけで足に触れてくる。そして見上げる。

    日没が早くなった。まだ暑いが、もう秋が覆いはじめている。昨日、古本屋と本屋と図書館、最後にスーパーに寄って帰ってきて、玄関の前で鍵を取り出すとき、この部屋が家に近づいたのを感じた。同じ家に小さいころから長く住んだから、住居は家なのだと思っていた。実際には、住居は家になっていくのであって、認識しだいなのだとすれば本当はどこにも家はないのかもしれないし、思い込んでしまえばどこでも家ということになる。
    「持ち家」ならまた別の実感があるのだろう。子をもつ、所帯をもつ、家をもつ。それは家に「なる」のではなく、家に「する」ことなのかもしれない。けっきょく一年しか住まなかった大きな一軒家は、半年くらい経ったある日に吾輩とふたつがここを家だとみなしたように見えた。

    晩ごはんのあと、机に戻ったらふたつがどこかからやってきて丸い目で見上げる。膝に乗りたいとき、ふたつはまず目を使う。だから、ふたつが膝にくることを見越して、膝の上でかけることなく丸めていたブランケットをきちんとかけ直そうとしたら、その途中の半端な状態でふたつはもう飛んできてしまった。早い早い、と笑う。でもほんとは遅かったのだ。

  • 2022/08/17

    十代の感受性を尊んで、そこを通り過ぎなければいけないこと、そして通り過ぎてもう失われてしまったことを悲しんだことが、もちろんわたしにもあった。十八くらいのときだと思う。それも過去になる。感受性を謳歌していた自身としての過去が、やがてそれを失って悲しんでいる自意識に満ちた自身としての過去になる。もちろん現在も、やがては。
    過去のある日とは別の言動をして、別のしかたで考えているから、いまは別のものが紡げるのだという、あたりまえのことが腑に落ちる瞬間が、ときどきくる。パルメザンチーズとローズマリーと黒胡椒をたくさん入れたクッキーの生地をのばして、行きつ戻りつする麺棒を眺めながら考えていた。やり直しというものがある。リセットではなく、過去を引き継いだまま、方向を変えるということ。つまり、やり直したいと思っても、過去に戻りたいわけではない。過去に戻ったところで同じ経験を踏まなければわたしは同じことをするだろうという自信がある。今度はうまくやれるという自信がわたしにはまったくない。人間の変化は月日とその間の経験によるものだから、その月日をばっさり切り落として戻ったら、似たりよったりのことを二度やる(そして悔やむ)にきまっている。現在位置からやり直すことは、単に「やる」のだともいえる。それってなにも直してなくない? なにも直してない。ただ、これまでとは別の方角へ行くだけ、それはやり直しなんかではない。でもやり直す。過去との誠実な付き合いかたはあるのだと思う。やがてクッキーが焼ける。

  • 2022/08/13

    考えごとをしていて、部屋の明かりを落として横になったとき、すでに明けかけている外がブランデーみたいな色をしていることに気がついて驚いた。台風がくる日だ。むかし、台風がくる日はきまって空を眺めにベランダへ出たのを思い出した。あの土地は地形的にあまり台風の被害を受けないから、こどものころは、台風はちょっとした楽しみのようなものだった。災害の報道を見ていても、悲惨だとは感じられてもどこか他人ごとで、大雨や暴風がほんとうに怖くなったのは、車の運転をしたり、川や海の近くに住んでからのことだ。他人の痛みというのがほんとうにわかるようになるのか、いまだにわからない。台風がくるせいか、ここしばらくではめずらしく冷えた朝で、ふたつがブランケットのなかへ潜りこんできた。ふとももが暖かくて、すぐに眠った。
    目がさめてうつ伏せになり前を向くと、吾輩がのんびり横になっていた。朝起きて愛しいものの姿があるとうれしい。

  • 2022/08/01

    ロンドンの地図を見ていた。スローン・スクエアからチェルシー・ブリッジ・ロードを下るとテムズ川に出る。ここは歩いたことがない。海外ではいつも、なんとなくの地図を頭に入れてひたすら歩き続けるだけで、史跡とか庭園とかはあまり訪ねなかった。それを目指して行くことも時にはあるが、ほとんどが歩いていて見つけたものを、これはなにか有名なものなのだろうなと察して、ようやく調べてみるだけだった。
    むかしは、宿やカフェに入って地球の歩き方などを開いて調べてみるのがやっとだったが、スマートフォンとWifiやらSIMやらが普及してからは、辺鄙な土地でなければ、その場で調べることができてしまう。これがあの!と思うこともあれば、威厳があるたたずまいなのに(少なくとも国際的には)大した価値が認められていないものもある。遺跡も、橋も、建築も。せいぜい地図に小さく名前が見つけられるだけの市場が、名の知れた市場より人も商売も充実しているように見えることもある。ここは行っておけばよかったとあとから思うことも多々あるが、大した後悔ではない。おなじ街にいて見たものと見なかったものは、それが日々の生活や学習の機会ならば損をした気にもなるけれど、観光において特別な差はないのだと思う。路傍であろうととるにたらない市場であろうと、旅先を歩いていて観えない光はない。
    朝、今日も洗面所からなにか言っている吾輩の声。起きてからもすごくなにかしゃべっていた。冷房に怒っているか、遊ぼう!か、甘やかしにおいで、か。用事をしつつ、エルンスト・ルビッチ『生活の設計』を流し観る。

  • 安息と遊びの呼吸(重なりズレる、ズレて重なる)

    熱が高いところへ昇るのを知ったねこたちは、本棚の上やキャットウォークの最上階でくつろぐようになった。
    彼女らに使ってもらおうと思って買ったブランケットは、ねこたちの生活術とともに使われなくなり、わたしが拝借した(わたしが使いはじめてからというもの、ねこたちはちょくちょくブランケットを目指して椅子や膝にやってくる)。

    暖かい昼間はソファにいることもある。正面のテーブルで本を読んでいるとき、ごはんを食べているとき、話をしているとき、お地蔵さんのように眠りつつ、たまに三分の一ほど開けた目をしばたたかせてわたしたちを見ている。
    たまにはストーブの前にもやってくる。テーブルの足、椅子の足、わたしたちの足のあいだを水路のように縫って全身の力を抜く。

    吾輩とふたつの安息と遊びの呼吸は、重なり、ズレる。
    好みと気分、習性が、同じ時間に別の時間を作る。

    夕方、キャットウォークで至福の面持ちで眠っている吾輩を見上げたふたつは飛び、登り、ずしずしと一心に進んでいく。一緒にくつろぎたくて、堂々とすり寄ってみる。しかし吾輩が至福地帯を共有することを受け入れるのは五度に一度くらいのもので、迷いなく迫ってきたふたつを吾輩はさっと避けて場所を変え、うらめしい顔をわずかに見せたあと、てきぱきと眠りを仕切り直す。

    あるいは昼さがり、遊び盛りのふたつがめずらしくソファで寝こけているのを、吾輩がソファに手をかけて覗き見る。気配を察したふたつがわずかに目を開いて鳴く。吾輩は軽やかに飛びあがって、ふたつに寄りそってグルーミングをはじめる。が、なぜかまたたく間にキャット・ファイトへと発展する(そうなるんだろうなと思って見ていると、ほぼ毎度そうなるのだが、どの瞬間にスイッチが入るのか、そもそもどちらかに・お互いにファイトの意欲があったのかなかったのか、未だによくわからない)。
    取っ組み合うには小さすぎるソファの上で回転してもつれあい、なんやかんやなんやかんや、ふたつは逃げるように飛び降りてその場を離れ、災難に見舞われたという顔で息をつく。
    吾輩は誘いに乗ってこなかったふたつを面白くなさそうに見つつ、しゃーないという顔で空いた席をひとりじめする。はじめからソファの席を奪うつもりで事をしかけたようにも見えなくもないのだが、利発的でありながら計画性を持たないのが吾輩の愛すべきチャームなのだと思う。

    彼女らの気の合わなさというのは、そもそも合わせることを知らないことからはじまる。
    ズラすことを厭わないときに重なるものがある。他者と呼吸を合わせることに宿る愛もあれば、合わせることを知らないことが宿す美しさもある。

    わたしの唾棄すべきプライドを照らし示してねこたちは、夜、やがて寝床に入った人間の胸の上へ、揃ってもそもそとやってくるのだった。そして静かに一つにくっついて、朝まで眠る。

  • 2022/01/06

    ここに越してきてはじめて雪が降った。関東でもかなり積もったところもあるようだったが、ここは温暖な土地らしくなんとか積雪という感じで、それでもわたしにとってはいい日だった。
    窓にそって設置しているキャットウォークから外を見ていたねこたちにも雪はわかるらしく、しばらく様子をうかがっているみたいだったけれども、やがて納得したのか、あるいは納得できないことに納得したのか、そのまま居眠りはじめていた。

    雪は降っても数年に一度で、積もることはまずない土地でマンションに住んでいたとき、ふと雪が降っているのを見つけると(あの街の雪は見つけないとわからない)ベランダに出ていったり、マンションを降りて外へ雪をたしかめに遊びにいったりした。なのにここでは家から出ずに、少しずつ庭の土の上に積もっていく雪を、ねこたちが眠る窓ごしに見ている。わたしはどうして飛び出したくならないのだろうと考えたが、やはりここは土の上なのだと思う。
    マンションやビルは内と外をくっきり分ける。わたしが都会であればあるほど街が好きなのは、そうしたくっきりとした建築物が人の流動とともに街の一部として息づくからだと思う。雪は街にも降る。街は雪の一部になる。けれどマンションの室内から雪を見つけても、それがここに降る雪だとは感じられない。わたしの住む部屋があり、外があり、そこに雪が降っている。座標を一致させるには、わたしが外へ出て雪に触れるしかない。自分の住む一軒家のなかから降雪を見ていて感じるのは、それは自分の雪だということだ。所有物という意味ではなく、わたしの住む家も庭も空から降る雪も同じ座標にあるということ。静かな日だった。雪国がそこに住む人びとに絶えず育てる感性を想像する。常夏の地、海のそばの地、歴史の地。

    吾輩はその後、しばらく怒っていた。たぶん寒かったのだと思う。ふだんない雪が降るくらいなのだから、気温に対する吾輩の怒りもふだんとは違う。やがて怒り尽くしたという感じで、ふたたび眠った。ふたつは静謐な気分につられて、いつになく心地がいいようだった。対流型ストーブが点くと部屋の上方が暖かくなることを知って以来、キャットウォークの最上階にのぼって、窓の外を見つつ、とろけてねむる。