• 2022/01/04

    夜はみんなでいっせいに寝る。ねこたちがいい加減に寝ようと言うのでわたしたちがついていくこともあるし、わたしたちが寝るのでねこたちがついてくることもある。

    昨冬はそそくさとふとんの中に入ってきていた寒がりの吾輩が、今年は入らず、ふとんの上で寝ている。朝起きて、ふとんの上で極限まで丸くなっている姿を見つけると、いや、中に入ればいいのでは……と思うのだけど、吾輩が「そう」しているというのは、「そう」いうことなんだろうなと思う。自分の落ち着ける場所へ、彼女ほどうまく素早く飛んでいける子はいない。

    今朝は、ふとんの上からわたしの脚のあいだにモスッ……と収まっていた。伸ばした右脚、あぐらをかくように曲げた左脚、そのいびつな余白に埋もれる吾輩、その体重に引っ張られるふとん、ねじれる腰。わたしは毎日どこかしら寝違えたような感じがしている。

    吾輩は、こちらが身じろぐとすぐにベッドを飛び降りる。アクション映画で銃弾を避けながら転がっていく俳優のように俊敏に、理解するより早く動く。そしてちょっと離れたところまで行って、やれやれ災難というふうに毛繕いをする。ときどきはそのままリビングへ行ってしまい、ときどきは寒そうに唸りながらふとんへ帰ってくる。
    まだ起きたくない時間に目がさめて、ねじれた身体の痛みやしびれに危機感をおぼえるときには、こちらもチャレンジをしてみる。わたしが体勢を整えて、吾輩がベッドから降りなければ成功で、吾輩が飛び降りていったら残念。失敗という結果は特にない。
    吾輩が降りていってしまっても別にいいけれど、不本意な寝起きというのは誰にとってもうれしくないはずだし、わたしは吾輩とふたつのことが好きなので、できればそのまま一緒に二度寝をしたいよと思う。

    今朝はそれがうまくいったのだが、二度寝からさめたときに吾輩はふとんの中にいて(!)、あらっと思った。のもつかの間、すでに起きていたらしいふたつがどこからともなくやってきて、ふとんに飛び乗り、吾輩のいるところを目がけてめちゃめちゃに掘る。(彼女はふとんの中に入る方法がいまいちわかっていないらしく、上から入ろうとして前足で掘りまくる)。

    吾輩はふとん越しの攻撃をしばらく知らんふりをしていたようだけども、やがてキレたようにふとんから飛び出していって、やはり少し離れたところで毛繕いをした。それを追うようにふとんからひょっこりと顔を出したふたつが、ぼうぜんと目を丸くしているのを見て笑い、わたしも起きる。二人ぶんの朝を動かしたふたつが今度はなぜか一人でベッドに残って、なにもかもなんだかよくわからないまま、二人ぶんの体温でぬくもったふとんで二度寝をする。

  • ねこはいないか

    ねこと暮らして新たに加わった習慣のひとつは、座っている椅子を後ろへ引くとき、そこにねこがいないかどうかを確かめることだった。

    キャスター付きの椅子でも、ねこたちはお構いなしにふわふわの毛をキャスターにめりこませて寝転がっていたりする。これが移動することくらいはもう知っているはずなのに、あまりにも無防備にキャスターとキャスターの間に頭をつっこんで眠っていたりする。
    特に足もとに暖房器具などがあると、よほどのことがなければねこたちはそこを離れないので、こちらは椅子に座っているときでも一ミリたりとも前後しないようにつねに気を配らなければいけない。

    本当にいるかどうかがわかりづらいという問題もある。はちわれの吾輩はパッと見てだいたい所在を判断できるけれども、全身真っ黒のふたつはなかなか判断できない。特に目をつむっているともう全然だめで、いないなと思っていちおう四度見くらいして、あっいる!と気がつくことがある。

    そんなときに確実なのは、「いない」を確かめるよりも「いる」を確かめることなのだと気がついた。いないだろうかと目を凝らしても確信は得られなくて、どこかよそのところにいることが目に見えたときに、これ以上ない確信が得られて、わたしは安心して椅子を引く。

    仕事部屋の扉を閉めて出ていくときにも、部屋に残っていないだろうか、閉めて大丈夫だろうか、と見渡してもなんとなく胸ががらんとしてしまう。本当にいないかどうかなんてわからない。
    けれどふと振り返って、廊下や向かいの部屋からこちらを不思議そうに見ているのがわかると、安心する。いないように見えるものはいるかもしれないけれども、そこにいるのはそこにいるということだ。そんなときねこたちは本当に不思議そうな顔をしてわたしを見ている。ねこはここにいるのになぜいないところを探しているのか、と。

  • 「生誕110年 香月泰男展」神奈川県立近代美術館・葉山館

    香月泰男展へ。最終日まで予定を延ばしに延ばし、寒い朝になんとか起きて出かけていった。もう先月のことになる。途切れ途切れに考えていたけれども、そろそろリミットなので記録だけしておく。

    香月泰男の作品を直に観たことはなく、この日がはじめて。その後も予定があったので、駆け足に観るつもりで入った会場のすぐ正面に書かれている香月泰男の言葉にしばらく立ち止まる。あ、これは無理だなと思う。予定に遅れることを腹に決めて、ゆっくり観てまわった。

    『兎』、『電車の中の手』『尾花』は特に好みで、印象に残る。香月泰男は石に惹かれていたという。石の肌を描ければ油絵の肌が描けるんだというような言葉もあった。石を描いた作品以外でも、絵そのものの面が石っぽくできており、それが不思議で、ラインぎりぎりまで近づいて画面をみる。
    シベリア・シリーズは一部を写真で見たことがあった。実物は強烈で雄弁で、これだけを物語る技術(感性を絵へ変換し、画を経て面へ落とし込むこと)が培われてきた時代と、その地盤の上で発出することができる「シベリヤ」のことを思う。

    言えることのないものに遭遇すると、とたんに非力な気持ちになり、そして安堵する。言語化できないことは、言語化できることよりもときどき重要だと思う。

    もちろん予定を大幅にすぎ、図録を買おうとしたが、そう、神奈川県立近代美術館・葉山館では図録の購入は現金のみ可能です(戒め)。この日の前日かその前くらいに、「どこかのミュージアムショップは現金しか使えなかった、どこだったかな」みたいな話をしていたばかりで、ここか!と思った。

    現金の持ち合わせがないでおなじみのわたしなので、しかたなく美術館を出る……前に訊ねてみる。明日からはもう図録の取り扱いはなく、今後は巡回先でしか買えないらしい。巡回先は練馬区立美術館なので、まあ行けるっちゃ行けるが、あとになって今と同じ気持ちで図録が買えるかどうかはわからない。いったん美術館を出て、いちばん近くのコンビニまで行く。

    キャッシュカードを携帯しないでおなじみのわたしなので、たまたま、唯一、財布に入っていたキャッシュカードを賭けのつもりでATMへ入れてみる。天の神様の言うとおり。残高3,074円。美術館へとんぼ帰りして、図録を購入した。もはや遅れるというレベルでもない次の予定へ急いだもののすっかり渋滞で、暮れていく海を車中からのんびり見ていた。

  • 発せられていること、応答すること

    吾輩とふたつを見ていると、わたしがすること、できることは応答だけなのだなと思う。
    応答するかしないかのどちらかだけがここにある選択肢であり、応答するかしないかだけがここにある。発せられるものはもうすでに発せられていて、快や不快、望みを発する声やまなざしはもうすでに目の前にある。風が吹けば風があり、鳥が鳴いたときには鳥は鳴いている。わたしが風神になれるわけではないし、鳥は通りすがるわたしのために鳴くのではない。わたしは風が吹いたので帽子をおさえ、鳥が鳴いたので木を見上げる。

    ふたつはよく空気清浄機の上に乗って、宣言するように意気揚々と鳴く。「あそぼう!」。
    吾輩はわりと平温でおしゃべりをすることが多いけれど、小食の彼女はたまにふと思い出したようにおなかが空くらしく、突然に顔をしかめて怒ったように鳴く。「ごはん!」。

    あるいは言葉にされないもののいくつか。
    たまたま夜遅くまで作業をしていて、いつもなら寝ている時間をとうに過ぎたときの、普段しない「やっかいな」ふたつの行動。思うように自分のペースが保てないでいるとき、なんとなく満たされないでいるときの吾輩の異食。乗りたいひざのスペースを見極めようとしているふたつの目。かなり部屋が温もったのでストーブを消すとわざわざ寒いところへ行って背中を丸め、こちらをちらちらと見る吾輩の圧。

    応答は義務ではないから、しないこともできる。ゆえに応答なのであって、けれど応答すること、呼応することだけがこの家をやわらかく耕し、呼べば返るわたしたちを積みかさね、発することが信頼に足りてゆく。

  • 2021/11/06

    今日の吾輩は、朝からよく甘えた。乱暴な物言いなので言い換える。心身にとって適切な距離をつくり直していた。遠さげるのではなく近づけることであったのは寂しかったからか、寒かったからか、つまらなかったからか、愛情をかけたくなったからか、心のうちまではわからない。

    吾輩もふたつも、当然のことながらおおむねマイペースだが、吾輩のほうがなにかと神経質な部分が多く、なかなか気が休まらなそうだと感じることが多い。それはもちろんわたしの主観で、リラックスも緊張もすべて彼女のペースだけれども、とはいえ最近の吾輩はけっこう気持ちがよさそうだと思う。
    わたしに抱っこされているときにふたつに見られても逃げなかったり、吾輩が日なたで眠る部屋をわたしが出入りして、なんならちょっと写真を撮っても身じろぎせず目をつむっていたりする。
    ねこにとっては人間からの制約の多い台所にもよく現れて作業を覗くし、そこで目が合ってもばつの悪そうな顔をしない。我がもの顔というべきか? 九ヶ月経って、また一段と新しい家に慣れてきたのだとも感じる。それはわたしにとっても同じことだった。

    そんな安心の土壌が耕されてきたところで、吾輩がたいへんな気分屋かつ消極的な寂しがり屋であることに変わりはない。人間を含め動物は環境に左右されるけれども、人間を含めた環境が左右できないのもまた動物だ。
    その点でいえば、ふたつはわりと一貫している。わたしたちや吾輩のそばにいるのと遊ぶのが好きで、人が仕事したり忙しくしているのが嫌い。ふたつの率直でシンプルな一面も、抱っこをねだりつつ距離をとる吾輩のふくざつな一面も、わたしにとってはこの上なく愛おしい。大好きだから、わたしにとって不都合なすべてが愛おしい。

    季節の中にも季節がある。春の中の秋、夏の中の冬、秋の中の夏、冬の中の春。抱っこされたいとき、ただ近くにいたいとき、これ以上近寄ってほしくないとき、ちょっと姿を隠したいとき、床で食べたいとき、ベッドで食べたいとき、彼女の気分の季節のなんと美しいこと。気分があることの美しさ。心のうちまではわからない。理解できないのが気分というもので、だから感じられるのだと思う。

  • 暖かさへ集うこと

    関東の気温が12月並みまで下がった10月22日、小雨のなか朝粥を食べに行き、帰りに灯油を買い、帰宅して即ストーブを出した。
    今年頭の引っ越しの際、目星をつけていたトヨトミの対流型ストーブの価格がなぜか高騰していて購入を見送ったのだが、もはや春、みたいな時期になって急に定価へ戻り、まあどうせ必要になるのだからと買っておいたものだった。二、三度使っただけで、ねこたちにとってはまだあまり馴染みがなかったと思う。

    話は前後して、10月半ばの夜、長年愛用している暖房器具サンラメラ、(我が家の)通称・メラメラを引っ張り出すことにした。ねこたちはメラメラが大好きで、冬から春までこの前を離れない(家族曰く、メラメラのスイッチを入れれば「吾輩は春までなんもせえへん」)。
    慎重派の吾輩は、大きいものを見たり、出し入れする落ち着きのない音を聞くといつもすぐに身を隠すのだが、このときだけは近距離でじっと見ていた(わたしにはわかる。「それが一体なにものか吾輩にはよくわかっている、はやく出せ、そしてスイッチを入れろ」と言っている)。
    部屋へ運ぶ。吾輩も移動する。本棚の上へ陣取る。コンセントを差す。メラメラのスイッチをONへ傾ける。数分後、吾輩はすっかり特等席におさまっている。

    これは例年どおり。違ったのは、吾輩が我が家へやってきた年の冬から使っていた毛布がないこと。
    メラメラの前にはその毛布が敷いてあるのがお決まりだったが、引っ越しのどたばたでほこりっぽくなりすぎて、しょうがなく処分した。今回メラメラの前に置いたのは、毛布の処分後に間に合わせで買ったクッションベッドだが、これが二匹には小さい。正確には小さくもない、のだが、メラメラの前へ収まるとねこたちはとにかく骨抜きになって、くったくたの半液状体になる。人が出入りしても耳ひとつ動かさない。ねこが一匹くたくたに溶けてしまうと、もう一匹はなかなかクッションベッドにおさまることができない。ちょっと寄ってくれ、みたいな感じで乗り上げていくこともあるのだが、いかんせん先客は一切身じろぎをしないため、いまいちおさまることができない。そしてうらめしそうに床板に座るので、人間はそのへんに脱いだ洋服などをベッド代わりに差し出すはめになる。
    ということで、大きめの安価なベッドと、わたしが欲しいくらいのウールのブランケットを奮発して買って、これが22日に届いたのだった。

    話が戻る。見るだけで暖かいような気がするストーブの前に、新しいベッドを置く。吾輩とふたつに紹介する。ちょっとにおいを嗅ぐ。ガン無視。しばらく様子を見る。強硬派のふたつでさえ知らん顔でベッドを飛び越える。ねこは安物にそっぽを向いて高級品をしれっと下敷きにするみたいなところがあると思う。のわりにただのぺらぺらなコピー紙の上に座っていたりもするけども……。なんにせよストーブを点火する。ベッドの上にブランケットを敷く。数分後、ねこたちはおさまるべくところへおさまる。

    暖かい部屋で、伸縮する火とねこたちを眺め、晩ごはんを食べる。白菜としめじと豚肉のせいろ蒸し、かますのソテー、寝かしていた小布施ワイナリーの日本酒。ねこは暖かさを好むが、それはとても本質的なことだと思う。当たり前のものが当たり前に機能しているのを見ると、わたしは時々泣きそうになる。ねこの暮らしの中に、当然のように宿って気づきもしない暖かさがありますように、と思う。

  • To 猫語翻訳アプリ, or not to 猫語翻訳アプリ

    猫語翻訳アプリなるものを使いたい。正確には「にゃんトーク」という。幸い、スマホはあるし容量も空いている、ねこもいるし(うれしい)、なんと二匹もいるし(うれしい!)、鳴いてもくれる。その気になればいくらでも使えるのだが使えない。負けた気がする。

    コーヒーを淹れてツイッターを見ると、今日も見知らぬねこたちの言葉が翻訳されていて、それはもうたいそうかわいい。ぜんぜん知らないねこなのにかわいい。負けた気ってなんなんだ、と自分でも思って、淹れたコーヒーを立ちっぱなしで飲みながら考えていた。

    本気の猫語ネイティブ翻訳機でないことくらいはわかっているし、それも込みで滑稽で楽しいみたいな部分だってあるわけだし、仮に個人情報が吸われてもいい。みんなが使っているから使いたくないわけでもない。使いたいのは本当だというところがまずもってめんどくさい。ねこたちにもっとめろめろになる機会ならいくらあってもいいし、いくらでものろけたい。あのちょっとドライな、言いっぱなし感のある翻訳もいいと思う。じゃ、なんなんだ、この負けた気……と思い、くどくど言ってないで使うかと思ってインストールしかけたこともある。でも負けた気がして踏みとどまった。よくわからないが負けた気がする、という心境じたい負けている感じがして気に食わない。考えている。

    人間にせよ動物にせよ植物にせよ、あるいは食材でも本でも絵画でも写真でも、他者としてのなにかと関わるとき、いつでも、利己が背中に張りつく。冷や汗を呼び起こす。品定めをし、愛せるものを愛し、美徳へ取り込み、生活へ巻き込み、踏みつけたものには目もくれずに、与えなかったものを正論で包装し、見えるものを見て、見たいものを見るのか?
    その一方で、利己はわたしの大切なパートナーであることを思う。必要悪なんかではなく、むしろ清潔さを賞賛しすぎる世の中で、偽善が偽善であることを見失わないために、わたしを生かしてくれる大切な意地であることを思う。利己と抱き合えずに、誰かのために何ができるのかと思う。

    ねこの言うことはいつも、たいていはわかる。どうにもこうにもわからないときもあるけれども、可能性の想像すらできないほどではない。「わかる」は暴力にもなり得る、というか暴力「でもある」けれど、やっぱりわかるものはわかる。わかってしまう。それが一緒に暮らすということなんだと思う。

    でもわたしがここで、信憑性などないとわかっていながら、遊びはんぶんに、ねこの言うことをわたしの言葉に翻訳させてしまったら、「わかる」はもう暴力「でしかなく」なってしまうだろう。翻訳された言葉が事実でも事実でなくてもかまわない。わたしの言語へ引き寄せることそれじたいが、暮らしを、本当のところはわからないまま、わからない存在どうしであるままの大切な暮らしを、その信頼を打ち砕いてしまう。

    などといっても、ねこは、おそらく気にしない。それはそういうものだ。わたしだけが気にしている。そういうもの。ねことの暮らしなんていうのははじまりからして利己まみれなのだから、打ち砕かれる信頼というのは、わたしの愛すべき利己との間にあるものなのだと思う。わたしがねこから貰うもの、実はねこには関係ない。そういうもの。

  • 『コレクティブ 国家の嘘』(2020)アレクサンダー・ナナウ

    ちょうど街へ出る用事があったので、『コレクティブ 国家の嘘』(アレクサンダー・ナナウ監督)を観た。今年は映画館へ行くのはこれでまだ二回目と思うとうんざりする。ちなみに一回目は『アメリカン・ユートピア』。

    舞台はルーマニア。ライブハウスで起こった火災をきっかけに、国家の欺瞞が暴かれていくドキュメンタリー。前半は果敢に真実を明らかにしていく記者を、後半は事件途中から就任した保健省の新大臣を追っている。2019年に第76回ヴェネツィア国際映画祭で上映され、2020年ルーマニアで公開。日本公開は2021年10月。

    ライブハウスでの火災を生き延びて病院で治療を受けていた人たちが次々に死亡し、死者数が64名に膨らんだことから、これはおかしいんじゃないかということで製薬会社、病院、医療システム、政府と芋づる式に腐敗が明らかになっていくのだが、まあそれはそんなものだろうというシャレにならない感想を抱く。しかしその過程は実に壮絶で、掘れば掘るほど腐っていたという事実自体よりも、その蔓を引き上げていくのはごくアナログな手の力なのだということに感ずるところがある。

    現地スポーツ紙「ガゼタ・スポルトゥリロル」の編集長カタリン・トロンタンと、チームに属する記者たち2人の顔は暗い。スクープを掘った喜びなどはかけらもなく、悄然としている。記者たちは我が子から制止され、テレビ番組では挑発的すぎると非難され、機関から家族を盾に脅しを受け、それでも土を掘り、蔓を引き上げる手を止めない。「メディアが国家に屈すれば、国家は国民を虐げるようになる」からであり、「国の機能不全が時に個人を押しつぶす」からだ。

    さんざん逃げ回った保健省大臣は辞任へ追い込まれ、次に非政治畑からヴラド・ヴォイクレスクが就任する。
    後半の主役となるヴォイクレスクは、アレクサンダー・ナナウ監督にオフィスを開放し、会見はもちろん前後のミーティングや移動の車中まで、大臣としての仕事のすべてを撮影することを許可しており、これがとにかく凄まじい。
    改革への奮闘と、それをあざ笑うような根本的な腐敗と圧力、保身、無関心。政府の腐敗に直面し、彼は「芯まで腐敗している、あるいはやる気がない」と疲弊した顔で言い、じきに始まる選挙で社会民主党が当選すれば退任になり、そうすれば医療システムを改善するために苦闘したあらゆる作業は覆され無に帰すことを予知しながらも、最後まで職務を全うする。

    社会民主党の圧勝結果に、こんな国に望みはない、30年は変わらない、おまえはよく頑張ったからウィーンへ戻れと言う父親に笑っていたヴォイクレスクは、その後もルーマニアに残り、保健相の再任などを経て、USRという中道政党に所属しているらしい。
    最近のニュースを読んでいると、USR党首が次期首相に任命されていた。だが議会の承認を得られる見込みは薄く、仮に得られたとしてもこの危機的状況で政権を引き継ぐことになり、失敗すれば次はないだろう、というようなことが書かれていた。映画終盤のやるせない情勢を思い浮かべずにはいられない。現実は続いている。

    日本も他人事じゃない、というのは明らかな事実だが、ガゼタ誌のような頑固なジャーナリズムも見当たらなければ(まさにメディアが国家に屈している)、この事態にカメラを抱えて飛び込み映画に変換する作り手がおり、それが真っ当に評価を受けるという地盤もまるで違う。どちらがどうと比べるものでもないが、他人事じゃないねなどと簡単に言ってしまえるわたしたちこそが、この国をここまで腐らせたのだと滅入らざるをえない。

  • 2021/09/22

    はじめに家へ迎えたばかりのとき吾輩は、人の気配のあるところでは決してごはんを食べなかった。

    すこし慣れてくると、人はいてもいいけれどもそれが少しでも動いたり音を立てたりすると食べるのをやめる、そういうねこだった。
    数ヶ月か一年か、やがてわたしたち人間が動いたり喋ったりしているときでも気にせず食べるようになって、それでもふいに外からや家の中からでも慣れない音が聞こえたり、カーテンが風に揺れたりすると、しばらく中断して警戒してまた食べはじめるか、たとえわずかしか食べていなくてもそれで切り上げてしまう、そういうねこだった。

    吾輩はわたしたちにとってもはじめて一緒に暮らすねこで、本当に申し訳ないことだけれど、彼女への対応が適切だったとはいえない部分がたくさんある。同時に、もともとの性格や、野良のころの悲惨な出自が関係していることもいくらか確かなはずで、わたしたちがもっとうまく段階を踏めていたらと後悔する一方で、わたしたちのやり方などで彼女の気質を左右できると考えるほどおこがましいこともないのだとは思う。
    だから、そのどちらにも偏らずに気持ちを持続させるというのが、わたしにできることのひとつだと折りにふれて思う。

    折りとは。

    この家にきて半年以上が経ったが、最近の吾輩は、むしろわたしがそばにいるほうが安心して食べてくれるように感じるときがある。いつもではない。時々、そばで座りこんで、見ているよという姿勢を表すことで、吾輩の警戒心がいくらか和らぐように見える。

    毎日に折りがあり、もちろん今朝にもあった。
    吾輩もふたつも、ごはんを食べる定位置は一応あるものの、とくに吾輩に関しては、ちょっとでも気になることがあれば食べずに済ますことが多いので、食べてくれそうなタイミングならどこでもごはんを出している。
    そして今朝は、台所で朝ごはんを用意していたわたしの足に頭をすり寄せて、見上げて、なんとなく寂しいよという顔をしていた(かどうかはわからないが、わたしはそう受け取った)ので、その場でごはんをあげてみた。

    わたしは横に座りこんで、名前を呼んでみる。吾輩は食べはじめる。近所の家から掃除機の音が聞こえて、吾輩が顔を上げる。しばらく静止。名前を呼んでみる、食べはじめる。家のきしむ音、すずめの鳴く声、車のエンジン音、風が窓ガラスを震わせる音、静止しては、声をかけてみる。急かすのでなく、大丈夫というのでなく、あなたがいるここにわたしもいるよという気持ちで、わたしたちの座りこむスペースに自分を溶いてみる。

    吾輩は未だに傷を持っているだろう、というのは人間の考えで、ねこの生体を基に考えれば彼女自身はもうとっくに忘れてしまっているのかもしれないと思う。でも持っている。傷は癒えないまま一体化して、彼女自身になる。癒そうというのはやはりけったいな話で、わたしはこれからも吾輩と長い時間を捏ねて、のばして、溶かして、安心を敷きつめていきたいのだと思う。

  • ワガハイ怒りの鉄拳

    吾輩は朝から怒っていた。しかめっ面ならぬしかめっ声というか、わたしは理不尽なまでにキレられているのだが、吾輩はどうやら急に寒くなったことに怒っているらしい。
    彼女はあたたかいのが好きで、少々気温が高くてもいつも気持ちよさそうにしている。例年、秋になって一度でも暖房をつけようものなら、次の日にはいくらかあたたかくてもスイッチの切れた暖房の前に座りこんでこちらを睨んでくるくらいだった。

    暑さの続いた8月、お盆に入って急に気温が下がり、吾輩は怒っている。寒いじゃないかと。なぜ突然こんなに寒いのか。昨日までは暑くていい感じだったのにと。
    そうだね、これは急だね、と言いつつ、ベッドの上にふとんを広げてめくってあげると、仕方ないなと言わんばかりに速攻で潜っていく。そして、よかったよかった、と思っているわたしの横をふたつが駆け抜けて、ふとんに突進していった。

    暑がりのふたつには、なにもかも意味がよくわからなかったらしい。
    もともと、わたしは吾輩とのあいだでは言葉が通じているのを感じるけれども、ふたつとはお互い完全に異言語を使っている、というかふたつはそんなことを考えてもいないくらいの様子で、言葉に偏って意思疎通をはかるべきねこではないことをこの一年でよく理解した。
    なんなら同じねこである吾輩ともあんまり意思疎通ができているふうはない。ガンガンつっこんで怒られて、でもまた懐へ入っていく。たまにグルーミングしてもらえる。

    いままさに、吾輩が潜ったばかりのふとんに突進して上からチョイチョイと叩きまわり、安寧の妨害から脱出した吾輩に怒られている。追いかけっこがはじまる。
    なす術なくその光景を見ているわたしとしては、あの死ぬほど暑い日にわざわざ冷房のついていない部屋に行ってふたりでくっっいて寝ていたのはなんだったんだ、こういう寒い日こそくっついて寝ればちょうどいいのでは……と思うのだが、そういうのが人間の浅はかな考えで、寒すぎて怒っている吾輩と、涼しくなって超元気なふたつにはくだらない考えなのだ、たぶんそういうことなんだろう。そうなんでしょうか。